私立探偵は「いつもの」と注文することで自身の選択の自由を担保する
◆ついに、いきつけの肉屋でひとことも発することなく品物が出てくるまでになってしまった。「楽でいいか」と思う反面、「いつもの」くらいは言わせてくれ、そんな気もしないではない。「いつもの」とはつまり、たくさんの「いつものじゃないヤツ」の中から選びとられた〝このひとつ〟のことを指すのであって、その意味でハードボイルドに登場する私立探偵は、(いつも同じものにしか口にしないくせに)バーのカウンターで「いつもの」とオーダーすることでじつは選択することの〝自由〟を担保しているわけである。
◆デイヴ・ブルーベックのアルバム『タイム・アウト』(1959)をひさしぶりに聴き、またしても冒頭の「ブルー・ロンド・ア・ラ・ターク」にやられる。「ブルーなロンド、トルコ風に」。モーツァルトやベートーヴェンは、初めて耳にするオスマントルコの軍楽隊によるエキゾチックなリズムに霊感を得て「トルコ風」の作品を書いたわけだが、20世紀の作曲家デイヴ・ブルーベックはその18世紀のモード(流行)に、さらに「ブルース」という1950年代式のエキゾチックなモード(流行)を異種交配することでこんな曲を生み出した。さすがはダリウス・ミヨーの弟子である。ミヨーには、西欧音楽にブラジルのダンスミュージックをかけあわせた『屋根の上の牝牛』という名曲がある。もしも「ジャズピアニスト」という肩書きでここまで有名になっていなかったとしても、デイヴ・ブルーベックの名前は「コンポーザー」という肩書きで音楽史の上に輝いていたにちがいない。
20世紀のサロンで「トルコ風」を披露する(?)デイヴ・ブルーベック・クワルテットのライブ映像。
Dave Brubeck Quartet - "Blue Rondo à la Turk," live
◆平日の営業時間内をひとりで切り盛りするようになってからそろそろ一年が経つ。たまたまお客様が集中するとどうしてもバタバタしてしまうのだが、先日、そんな気配を察した常連のお客様が注文後にひとこと、「ゆっくりでいいわよ」と声をかけてくださった。ゆっくりでいいと言われて「はい、そうですか」とあからさまにスピードダウンするわけではないのだけれど、気持ちにゆとりが生まれ落ち着いて作業に集中できるのでこういう状況にあってはまさに「救い」のひとことといえる。この仕事、こういう生身の人間とのふれあいなくしてはとてもじゃないが続かない。
◆ここのところ繰り返し、ハインリッヒ・シュッツの「わがことは神に委ねん」SWV.305を聴いている。クラシックはそこそこ聞きかじってきたつもりだったが、まだまだこんな凄い音楽があったのだ。正直ビックリしている。
この曲は、シュッツの「小宗教コンチェルト第1集op.8」のなかの一曲である。この作品集をシュッツは、そのためにドイツの人口が三分の一にまで減ってしまったとされる「30年戦争」のさなかに発表している。まさに、戦時下の音楽。厳しいながらも、ざわついた心を鎮め、きっぱりとした歩調で正しい道筋へと人びとを導いてゆく小さな灯火のような音楽である。タイトルは、ごく少ない人数でも演奏可能であることを意味していて、じっさい、ぼくが聴いているのもテルツ少年合唱団の数名のソリストたちによる演奏だ。人数が少ないぶん、そこには切々とした魂の叫びがあり、「歌」というよりもむしろ「声によるドラマ」といった印象を抱く。
思うに、シュッツはこの曲集をドイツ各地の村の教会で信仰心の厚い人びとによって演奏されることを前提に作曲したのではないだろうか。この作品を演奏することで、たとえ荒廃したドイツ全土に離ればなれになっていようとも、人びとの信仰は守られ、心をひとつにすることができる。戦時下の音楽の果たすべき役割について、シュッツは深いところでかんがえたひとだった。それは、おなじく乱世にあって、「御文(おふみ)」というかたちで各地に散らばった門徒たちに弥陀の教えを正しく伝えようと心を砕いた蓮如にも通じている。