18.09.2018-19.09.2018
◎18.09.2018
このあいだテレビで、最近発見されたという晩年の藤田嗣治が吹き込んだ音声テープが紹介されていた。後世に肉声のテープを遺そうと思った理由が淡々と語られた後、人生の終盤を迎えつつあるそのときでさえなお枯れることのない旺盛な創作への情熱がなぜか芝居仕立てで本人によって唐突に演じられるのがおもしろかった。
そしてさらに興味深かったのは、これについて浪曲師の玉川奈々福さんが、「芝居」ではなく明らかに「浪曲」の節回しであり、また啖呵であるとツイッターで指摘されていたことだ。奈々福さんによれば、じっさい藤田はフランスで二代目広沢虎造の浪曲を愛聴していた形跡があるという。ただし、藤田のはかならずしも「虎造節」というわけではないらしいが。
そういえば、ぼくの好きな久生十蘭の小説『魔都』にしても、最初の「口上」からしてまさに「講談」そのものである。もともとは雑誌「新青年」に連載されていたことを思うと、いわば講談の続き物のようなつもりで考えていたのかもしれない。藤田はもちろん、久生十蘭もフランス遊学の経験をもつ「モダニスト」である。当時としてはバリバリのモダンな感覚の持ち主であるはずの彼らがそうなのだから、ぼくらが想像する以上に当時の日本人にとって講談や浪曲は自分たちの血であり、また肉であったのだろう。
午後、ちょっと日本橋、銀座界隈を買い物がてら散策したのち、自宅にもどりネットで映画を観る。なにも考えずただ笑えるもの…… と思って探したら、三谷幸喜が監督した『ラジオの時間』があった。かんがえてみれば、三谷幸喜の映画ってちゃんと観たことがない。
生放送のラジオドラマをめぐるドタバタ劇だが、これはもう、プロットというか完全にキャスティングの勝利だよなあ。つまらなくなりようがないよ。そして、オヒョイさんも細川俊之もこの世にいないのか、と思いちょっとしんみりする。
◎19.09.2018
そこそこ涼しく、そこそこ天気もよいのにひまな1日。目にみえないだけで、じつは地上にも「黒潮」のような流れが存在していて、それがお客さんを運んできたり、遠くに連れ去ったりしているのではないかと密かにかんがえているのだが。
ひまなので、いろいろ溜まっていた事務作業をガシガシとやっつける。虚しいが、それなりに有意義な1日。あしたにはきっと潮の流れが変わりますように。