moiのブログ 日々のカフェ season3

東京・吉祥寺の北欧カフェ「moi」の店主によるブログです。基本情報は【about】をご覧ください。

03.08.2018-04.09.2018

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◎03.08.2018

 フィンランド語に「ロウリュ(Lo:yly)」という単語がある。フィンランド語は知らなくても、サウナ好きならあるいは耳にしたことがあるかもしれない。

 フィンランドのサウナでは、熱した石に水をかけ強制的に猛烈な水蒸気を起こすのだが、これを「ロウリュ」と呼ぶ。そしてこの高温の水蒸気を浴びながら、「ヴィヒタ」という若葉のついた白樺の枝を束にしたもので全身をはたき血行を促すのである。

 さて、金曜日の夕方、わずか30分ほどとはいえひさしぶりに通り雨が降った。ところが、この日のこのあたりの最高気温は37℃。当然、焼け付いたアスファルトはほぼサウナストーンのような状態になっている。そこに雨である。わかりやすくいえば、サウナで、いきなり横のアホがバケツで水をぶちまいたようなものである。ロウリュとかよろこんでいる場合じゃない。馬鹿ロウリュだ。

 案の定、あっという間に窓ガラスは白く曇り、ためしにちょっと外に出てみたら猛烈な湿度で息もできないほどだった。たとえて言えば、取り組み直後の力士にハグされているかのような息苦しさだ。助けてくれ。

 とりあえず、気を取り直してヴィヒタの代わりに手でぴちゃぴちゃ腕やら頰やらをはたいておいたのだが、心なしかお肌がツルツルしてきたような気がするよね。周囲からアホに見られない程度にやってみることをおすすめする。

 

◎04.08.2018

 自由・平等・博愛のなかで、もっとも尊いのは「博愛」である。あくまでも個人的な意見だけれど。

 たしかに「自由」や「平等」はすばらしい。でも、それらは基本的に外から与えられるものである。たとえどんなにそれを欲しても、じぶんの力ではどうにもできないことがある。けっこう、ある。それに対して、「博愛」は内から与えるものである。

 大辞林によれば、「博愛」とは「すべての人を等しく愛すること」とある。「博愛」とは、ひとりひとりの心の持ちよう、つまりその精神のうちにあるということだ。だが、「自由」や「平等」とちがい、ただ口をあけて待っているだけでは「博愛」は手に入らない。ひとりひとりが、そのような心をもったときそれははじめて成就するのだ。だからこそ「尊い」。

 いまから20年くらい前、ぼくがぼんやりカフェをつくりたいなどと考えていたころ、巷では「カフェ・ブーム」などといわれ、おしゃれな街におしゃれなカフェができはじめていた。当時、いまよりも多少はマメだったこともありそういったお店にもたびたび足を運んだが、おなじライフスタイルやおなじセンスの人たちのたまり場のような空気に、正直あまり居心地のよさは感じられなかった。そんななか、ぼくにとっての「お手本」はたとえば京都の喫茶店に、またヘルシンキのカフェにあった。

 それは、こう言ってよければ、「博愛的」な空間だ。そこでは、一人ひとりのお客さんすべてにそれぞれの「居場所」があたえられていて、それぞれが思い思い勝手な時間の過ごし方をしているにもかかわらず、ゆるやかなひとつの気流が店全体を包み込みほのぼのとした空気を醸し出しているのだった。

 さて、開店から丸16年が過ぎ、「博愛的な場所をつくりたい」というぼくの当初の目標はおおむね達せられたような気がしている。ここ何日間かのことを思い出してみても、はじめてのひともいれば常連さんもいて、また以前はたらいていたスタッフもいる。夏休みの女子高生がいるかと思えば、会社帰りのOLにおばあちゃん、家族連れ、カップル、もちろん男性のひとり客もいるといった具合だ。お客さんの数は少ないというのに、これだけのバリエーションはなかなかよいのではないか。干渉しあわない風通しのよさがある一方で、無言の、ゆるやかな連帯もある。それぞれが、それぞれのやり方でそれぞれの「時間」を過ごし、またひとつの空間の中にあってたがいに認め合っている証拠だ。いま、moiというお店の空気をつくっているのは、ほかならぬこのひとりひとりの「博愛的な」お客さんたちであると思う。あとは、そうした居心地のよさを「発見」し、足を運んでくれるひとがもっともっと増えてくれるとよいのだけれど。

 それにしても、ここ数年の日本全体を覆っている空気はどうも苦手だ。個を、ひとつの全体に無理やり押し込めようとしているような印象を抱く。それぞれのちがいを認め合い、等しく愛するという「博愛」の精神はすっかり後ろに追いやられたかっこうである。だからこそ、よりいっそう「すべての人を等しく愛すること」の尊さを噛みしめて日々を過ごさなきゃ、ともかんがえる。

 フィロソフィーのダンスという風変わりな名前の4人組アイドルグループがある。ここ1年半ほど、ぼくが熱心に追いかけているグループである。最初こそ、アイドルが、哲学的な歌詞をひどくマニアックなファンクやR&Bにのせて歌うというそのコンセプトの新奇さにつられて聴いていたのだが、繰り返し音源を聴いたり、ライブに足を運んでみたりするうちに、ぼくがこの4人組に惹かれる理由はもっとちがったところにあるということがわかってきた。要は、このフィロソフィーのダンスもまた「博愛」の精神にあふれているのである。

 ひとつのグループであるにもかかわらず、フィロソフィーのダンスのメンバー4人はそのキャラクターも声質もまるでバラバラである。しかも、そのバラバラさ加減ときたら、縮まるどころか時間とともにむしろ拡がってゆくいっぽうなのだ。ところが、ここが不思議なところなのだけれど、それぞれがめいめいの個性を磨き、極めれば極めるほど、どういうわけかグループとしての「強さ」はより増して、魅力的になってゆく。

 つまり、メンバー4人がそれぞれ「フィロソフィーのダンス」という「枠」にみずからを合わせるのではなく、4つの個性がありのままにふるまうそのありようこそが「フィロソフィーのダンス」なのだ。仮に、フィロソフィーのダンスとメンバーのところをそれぞれ会社とその社員、国家とその国民に置き換えてみれば、このグループの風通しのよさが理解できるのではないか。当然、彼女たちのライブ・パフォーマンスからはありえないほどの楽しさがこぼれ落ちる。生きづらさから、ちょっとだけ解放された気分になる。

 つい最近MVが公開された「ライブ・ライフ」は、今月末にリリースされる両A面シングルからの楽曲なのだけれど、メンバー4人がときに悩んだり迷ったりしながらも自身の個性を磨き、またそれぞれの個性を認め合うことで懸命に走ってきたこの3年間の集大成といった趣の作品になっている。

 「博愛」とは「すべての人を等しく愛すること」である。と同時に、さまざまな違いを認め、障壁を乗り越えてすべての人を等しく愛そうと努めることは、巡り巡ってじぶん自身をまた強くたくましくもしてくれる。このMVに映る彼女たちの姿から、ふとそんなことをかんがえた。


フィロソフィーのダンス/ライブ・ライフ