moiのブログ 日々のカフェ season3

東京・吉祥寺の北欧カフェ「moi」の店主によるブログです。基本情報は【about】をご覧ください。

18.07.2018-19.07.2018

◎18.07.2018

2002年にオープンして以来、おかげさまで丸16年が経ちました。

 

◎19.07.2018

新しいことや、これまでやってきたことの見直しをとりあえず10個くらい考えてみようと思い立ち、すでに7個くらいまでは思いついて、うち5個くらいはじわじわ動き始めている。

昨日ご案内した平日の「夏時間」の導入もそのひとつ。暑すぎてランチタイムにひとが来ないなら、そこは捨ててむしろ後ろにずらした方がよいのではという判断だ。「こうあるべき」を、脳内でカチッカチッと思い切って外してゆく作業はなかなか気持ちよくもある。うまくいかなければ戻せばいいだけのこと。

それにしても、暑さのせいだけなのかどうかは分からないが、ここのところ本当に暇で泣いている。メンタルがやばい。

そんな中、フィンランド人の女の子が来店。日本語が達者なので留学生かと思いきや、聞けば旅行で来ているとのこと。「サウナみたいな暑さでしょ。しかも、外からカギをかけられて出られなくなっちゃったみたいな感じじゃない?」と言ったら、「サウナいらないかも」とゲラゲラ笑っていた。

帰り、新宿のタワレコに寄り道して「フィロソフィーのダンス」のインストアライブ。今日もフロアに入りきれないくらいの人。楽曲について言えば、これまではどちらかというとマニア受けを狙ったような懐古調のファンクやR&Bをベースにした曲で評価を得ていた部分が強かったと思うのだが、8月末発売の両A面シングル「イッツ・マイ・ターン/ライブ・ライフ」はいままでにない分かりやすい「現在進行形の」カッコよさがあるのでより全方位に向けて届くはず。売れると思う。

ナツモイ!

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 「猛暑のトンネル出口見えず」とか「命に関わることもある危険な暑さ」とか、とんでもない見出しと予想気温が連日目に飛び込んできてげんなりです。じっさい、日の高い時間帯にふらふら出歩くのは場合によって危険といえそうです。臨機応変に、すこし日が傾いたころをみはからって買い物に、散歩にと出かけるようなライフスタイルの変更が必要かもしれません。

  そこで、2週間限定で平日の営業時間を1時間ずらしてみます。名付けて、

 

ナツモイ!

 

 期間は、

7月25日(水)〜8月6日(月)までの平日です。

 

 通常11時30分〜19時(18時30分L.O.)のところ、

12時30分〜20時(19時30分L.O.)と1時間後ろにずれます。

 

 夕方、いつもより少しのんびりと、また会社帰りにちょろっと気分転換に、そんなふうにご利用いただければ幸いです。また、これにともない一部メニューの変更などの可能性もありますのでご注意下さい。

  なお、土日祝はこれまでと変更ありませんのでお気をつけ下さい。春はあけぼの、真夏はヨル活でよろしくお願いいたします。

17.07.2018

 どうやら、この世界には3つのタイプの人間がいるらしい。「ノブナガ型」に「ヒデヨシ型」、そして「イエヤス型」だ。

 ホトトギスに引っ掛けて、3人の「武将」のまったく異なる気性をあらわした俳句はよく知られている。

 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス織田信長

 鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス豊臣秀吉

 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス徳川家康

というあれである。

 たとえば、日陰のないところに日陰をつくるという「日傘」の発想は「ヒデヨシ型」である。「イエヤス型」だったらどうするか。待つのだ。ひなたで、とにかく日がかげるまでずっとじっとしているのだ。たぶん、死ぬ。チャンスが到来するその時まで粘り強く待つことで天下を手中に収めたとされる徳川家康だが、だめなんじゃないか? 家康。

 プレミアム・フライデーはどうだろう? 個人消費を高めるため、日本政府と経済界が中心となって立ち上げた消費マインドを刺激するための休暇制度である。金曜日を半日お休みにし、土日とつなげて2.5連休にすることで消費に対してより意欲的になってもらおうという発想はまさに「ヒデヨシ型」のそれだが、その結果はというとご存知のとおり。

 ここからわかるのは、ひとくちに「ヒデヨシ型」と言ってもさまざまなヒデヨシがいるということだ。プレミアム・フライデーをかんがえたのは「ヒデヨシ型」の人間にちがいないが、それは「世の中がぜんぜん見えてないヒデヨシ」である。会社で、もっとも部下になりたくないのは、こういうタイプの上司だろう。

 ヒデヨシもイエヤスもダメということになれば、あとは「ノブナガ」に頼るほかない。ノブナガだったらどう言うだろう。

 「殺っちまえ」。

 おい、だれか、ほかに武将はいないのか?

ーーー

 午前中はあれこれ家の片づけ、午後は病院へ見舞いに。あとは、上に書いたようなことをかんがえていたら休日が終わっていた。

16.07.2018

 みなさん! どうです? ムカつくような暑さじゃないですか? 腹が立ってならないので、moiを北欧の飛び地にすべく7月の最後の週末あたり(たぶん29日の18時くらい)に店主秘蔵?の北欧映像などを眺めつつ、ただただダラダラとお茶をするだけの「納涼!北欧ゆるフェス!」の開催を企画中です。レア映像の中からみなさんの投票で見たいものをその場で決めます。暑くてムカついてるひと、ぜひご参加を!!!

PS.最近のオススメは『蜜と雪いちご味」です。

15.07.2018

 きっと信じてはくれまいだろうが、これは昨晩ほんとうにあった出来事なのだ。いつものように片づけをすませ、店の外に一歩出たとたん、それは起こった。どこからともなく何十人、いやおそらく百人以上もの赤や緑の衣装を身につけた小人たちがそれはものすごい勢いで駆け寄ってきて、あれよあれよという間にぼくの全身を熱い蒸しタオルでぐるぐると、有無を言わせず簀(す)巻きにしてしまったのだ。ぼくはただ唖然としてへたへたと道に座り込み、ダラダラと汗を流しているほかなかった……

 以上、昨晩の尋常ではない蒸し暑さをメルヘンチックに表現してみました。

 

 それはさておき、NHK-BSでドイツの哲学者マルクス・ガブリエルをとりあげたドキュメンタリーをやっていたがなかなか面白かった。ミナミの路上でサラリーマンに「幸福」について論じたり、新橋の屋台でOLの恋愛相談に答えるマルクス・ガブリエルの姿はさながらロック・アイコンのようだが、本人はそんな扱われ方も案外楽しんでいるようみえる。

 世界のありようを、まるでルービックキューブの解き方でも説明するかのように語るマルクス・ガブリエルの姿は、出口が見えない、解決の糸口が見つからない、そんな混迷の時代に生きる者の目には「希望」の体現者のように映る。番組の中で彼は、とても困難にはちがいないが、だが自分は対話を通してヒトラーユダヤ人の虐殺を思いとどまらせることができるだろうと語っていた。いま、多くの人たちは「希望」に飢えている。マルクス・ガブリエルの平明さと力強さは、そうした人たちにとってきっと「甘いお菓子」のように魅力的であるにちがいない。

 番組では、彼の思想と西田哲学の近しさについても触れられていたが、「人間」という概念の考察にあたってナチスドイツの反省をひとつの立脚点とするマルクス・ガブリエルは、西田哲学が結果的に太平洋戦争に加担するような形になったことについてははたして知っているだろうか? もし知っていたとしたら一体どう語るだろうか? 

 

 なにも哲学者のテレビを観たからというわけでもないが、ここのところ人間の生と死について漠然と意識しつつ過ごす日々のなかで、人間の「幸福」とはどのようなものなのかをぼんやり考えている。

 人間にとって「幸福」とは、選択肢があり、しかもそれをみずからの意志によって選び取ることのうちにある。

 選び取った先にある結果は、この際関係ない。結果は「運」である。「幸福」と「幸運」とは切り離して考えるべきだ。「幸福」を「幸運」の量ではかれば、ぼくらはより幸福から遠ざかる。結果がどうであれ、まず選択肢があり、みずからの意志によってそれを選んだ時点でひとまずぼくらは「幸福」だといえる。

 たとえば、国ごとの「幸福度ランキング」のようなものがある。必要最低限の選択肢がつねに用意され、それをみずからの意志によって選び取ることのできる社会に生きているひとで、しかもそこに最低限の「幸福」を見出すひとが暮らす社会は、当然「幸福度」が高くなる。たとえば北欧の国々のように。しかし、「幸運」な結果によって「幸福」の度合いをはかろうとするひとの暮らす社会では、反対に、その「幸福度」は低くなるだろう。日本はいまそれにあたるかもしれない。

 ぼくらがまず実現すべきなのは、その意味でつねにだれにとっても等しく選択肢が用意され、選び取ることのできる社会であり、そこに「幸福」の値打ちを置く社会である。結果はさておき、「選び取った」ことにまず幸福を見出すべきだと思うのだ。

14.07.2018

    いまバスの中なのだが、運転手がバス停の名前を誤って訓読みでアナウンスし続けていてめっちゃ気になる。そこまで難読地名でもないし、だいたい自動音声はちゃんとした名称でアナウンスしているのだから気づけよと言いたい。バス通勤になって2年くらいになるが、バスの運転手は良くも悪くも独特のキャラクターの持ち主が多い。多すぎる。

    猛暑日。予想通り、だれも歩いていない。土曜日なのに。みんな家に引きこもっているにちがいない。「光熱費がヤバいんですよね」スタッフが言う。休日、こんな感じで暑い日が続き、つい出不精になりエアコンの効いた部屋でダラダラしていると、翌月、光熱費の請求額がとんでもなく跳ね上がっていて目の玉が飛び出るのだとか。なるほど。

   数年前しばらく手伝ってもらっていたスタッフから連絡があり、念願叶ってスウェーデンへ家族で旅行することになったのでおすすめを教えてほしいとのこと。スウェーデンについては不案内だが、「森の火葬場」だけは絶対に行くように指示。

    「火葬場」などと聞くとなんとなく湿っぽい場所を想像して躊躇してしまうかもしれないが、実際足を運んでしまうとまったくそんなことはない。むしろ、ずっとここにいたいと思ってしまうほどだ。あの場所ほど、北欧に暮らす人たちの「死生観」を理屈抜きに理解できるところはない。もしも北欧に関心があるのなら、かならず一度は足を運ぶべき場所。

12.07.2018-13.07.2018

12.07.2018

    どういうわけか、真夏になるときまってマイルス・デイビスの『マイルス・アヘッド』とフェデリコ・モンポウの『内的な印象』が聴きたくなる。真夏といえば、光の強さであると同時に、また影の濃さでもある。思うに、この2枚のアルバムには、そんな光と影の強烈なコントラストが刻み込まれているからじゃないたろうか。

    たとえばモンポウの『内的な印象』の第2番「哀歌」では、貞淑で美しい旋律に暗鬱な低音のオスティナートが影のようにつきまとうのだが、以前この作品を編曲したある音楽家が、ばっさりとこのオスティナートを取り除いてしまっていて、そのため安っぽいムード音楽のようになってしまっていたのにはひどく落胆した。影は光がないところには存在しないが、光もまた影のない場所ではその意味を喪ってしまうものなのだ。

    同世代のひと相手にしゃべっていると、そうそう、あるある、わかるわかるで話が済んでしまうのでとても楽だなと思う反面、このままではバカになってしまうのではないかと軽い恐怖心に襲われる。

    その点、上でもいいし下でもかまわないが、年の差のある相手だとうまく伝えることを考えながらしゃべらないといけないのでアタマを使うことになる。さまざまな年代、背景をもったひととフリートークをする機会に恵まれているこの仕事は、そういう意味でなかなかに手強く、またそこに面白みがある。

 

13.07.2018

    お休みをいただき、早朝から病院。さすがに病院に15時間はキツかった。時間がかかるのは覚悟していたので、堀江敏幸『郊外』、田村泰次郎『わが青春文壇記』、小西康陽のコラム集を抱えていったのだが、まともに腰掛ける場所すらない状況では、せいぜい読めるのも最初の3、4時間といったところ。23時帰宅。