moiのブログ 日々のカフェ season3

東京・吉祥寺の北欧カフェ「moi」の店主によるブログです。基本情報は【about】をご覧ください。

ひとりの時間をためらわないで

 入ろうか、入るのやめようか、店先で思案している姿をよくみかける。はじめての店の敷居をまたぐのにはなかなかな勇気を必要とする。ひとりでは店に入ることができない。あるいは、なにをしていいか判らない、手持ち無沙汰、そんな声もよく耳にする。他人とひとつの空間をシェアすることが苦手というひともいるだろう。

 

 十五年ほど続けてきて思うことは、ほとんどの場合、そしてたいがいのひとは、この世界からカフェが消えてもさほど困らないということだ。じっさい、ネットでかんたんにおいしいコーヒー豆や紅茶をかんたんに手に入れることができるいま、自宅でお気に入りのインテリアに囲まれて楽しむお茶のひとときはじゅうぶん快適にちがいない。ただ、ひとつ言えるのは、自分の家は日々の暮らしの中心であって、そこにいるかぎりひとは日常の仕事や人間関係と必ずつねにつながっているということである。

 仕事や人間関係、日々の暮らしにつきまとう些事から自分を切り離すために、ひとはちょっとした〝舞台装置〟を必要とする。たとえば〝旅〟がそうだろう。旅とは、日々の暮らしから物理的に距離をとることで自分じしんを日常から切り離すための道具立てである。いっぽう、わざわざ旅をしなくても、自分なりの〝舞台装置〟をつかって同じような効果をうまく生み出している人たちもいる。

 

 これは、映画『かもめ食堂』でアソシエイト・プロデューサーを務めた森下圭子さんから伺ったエピソードなのだが、日本とフィンランド、それぞれからスタッフが参加した『かもめ食堂』の野外ロケのとき、ランチタイムになると日本人スタッフはみな1箇所に集まり輪になって食事をとる。ところが、フィンランド人のスタッフはというと、めいめい自分の食事を手にあちこち散らばってひとりで黙々と食事をしていたという。聞いたとき、フィンランド人=寡黙というパブリックイメージとあまりにも合致しすぎて爆笑せずにはいられなかったのだが、それはかならずしも彼らの寡黙さに起因しているわけでもないし、ましてや協調性がないとか、スタッフどうし仲が悪かったというわけでもないだろう。ただ、他人といっしょに仕事をするうえで、チームワーク同様、彼らにはこうした〝ひとりの時間〟がたいせつであり、映画のロケ現場にあってはそれが〝ランチタイム〟だったということだ。

 

 ところで、東日本大震災の後しばらく、ひとりで来店されるお客様が増えたことがあった。計画停電や続く余震のなかひとりで家にいるのが心細い、そんなふうに話してくれるお客様もいた。家でテレビを観ても、職場にいても、友達としゃべっていてもすべてが震災とそれにともなう原発事故への不安や恐怖につながってしまった当時の日常生活を思い返すとき、カフェという、日常から適度に隔離された空間で、あまりよく知らないひとが淹れてくれるコーヒーを飲む時間だけが、唯一そうした日常から離れることのできるおだやかな時間だったのではないか。なるほど、心がざわざわしたりささくれだったりするときほど、ひとはカフェを欲する。そんな気分を驚くほどに鎮めてくれる〝ひとりの時間〟を、わざわざカフェに出かけることは担保するからだ(*個人の感想であり、効果・効能を示すものではありません!?)。

 

 ひとは他人と、そしてそれがもたらす有害無害の情報とまったく関わらずに生きてゆくことはできない。だからこそ、ひとには意図的に日常から自分を切り離す〝ひとりの時間〟が必要だ。まあ、「宣伝」と思って聞いておいて欲しい。どうか、〝ひとりの時間〟をもつことをためらわないで。