moiのブログ 日々のカフェ season3

東京・吉祥寺の北欧カフェ「moi」の店主によるブログです。基本情報は【about】をご覧ください。

ペディグリーチャム殺人事件

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 ペディグリーチャム殺人事件。朝、目がさめてぼんやりしていたら唐突にそんなコトバが思い浮かんだのだ。いきなり何が言いたいのだ? まったく、脳ってこわい。ぼくにとって、脳は真っ暗闇で、そのなかを無数のコトバが蠢いているイメージ。彼らは、指令がきて呼び出される時を待っている。なかには二度と出番のないまま消えてゆくものもあるかもしれないが、それでもただ待っている。ところが、ときに呼び出されてもいないのに自力で飛び出してこようという奴らもある。コトバの暴発。けさ、<ペディグリーチャム>と<殺人事件>とはこうやって申し合わせて飛び出してきたのである。言ってみれば、これはコトバの逃避行だ。もしかしたら、シュールレアリスムの<自動記述>とはこういうことなのかもしれない。どうなんだろう? 教えてブルトン先生。

 だが、ほんとうの脳のこわさは、こうしたコトバたちの勝手気ままを脳はけっして許さず、すぐさま追いかけ、意識という「網」で捕獲しようとするところにある。というのも、ぼくはすぐさま「ネコまっしぐら カルカン殺人事件」という言葉を連想したからである。せっかく自由を求めて飛び出してきたのに、意識は「ネコまっしぐら カルカン殺人事件」というなんとも恐ろしい飛び道具をもって<ペディグリーチャム殺人事件>を引っ捕えることで、それをたんなるナンセンスな言葉遊びに変えてしまった。<詩>は意識に対する<抵抗>だが、「言葉遊び」は意識への<従属>である。意識はコトバを秩序づける。秩序づけられたコトバは「言葉」になる。

 朝、目が覚めてからのほんの数十秒のあいだにこんな恐ろしい闘争のドラマが繰り広げられていたのかと思うと、ホント脳ってこわい。

あめとむち

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帰り際、にっこり笑って「1年ぶりくらいに来ました! 美味しかったです!」と声をかけてくださった若い女性のお客様。「あげていい?」「いいよ」という会話の後、「どうぞ!」と言って持っていたアメを手渡してくれた小2男子。

もうやめてやるーーー と叫びたくなるような日に限って、こんなちょっとうれしい出来事が起こるって一体どんなプレイだよ。ていうか、これがホントの〈あめとむち〉だよ。ダジャレかよ。

開店前のパン屋のパンが

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朝、パン屋の前を通る。パン屋はまだ閉まっている。その開店前のパン屋から、いままさにパンを焼いているなんともいえずいい匂いが漂ってくる。パンが食べたい、パンが食べたい、いますぐパンが食べたい……。かつて、フランスのさる高貴な婦人はこう言ったそうだ。<パンがなければお菓子を食べればいいじゃない>。バカを言うな。オレはパンが食べたいのだ。それも、<開店前のパン屋>のパンが。

カワイイ

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 カワイイ(「cawaii」)というタイトルのティーン向けのファッション誌、昔なかったっけ? それはそうと、先日来店したたぶん4歳くらいの女の子が、店に置いてあるノルウェーの絵本『キュッパのおんがくかい』を眺めながらしきりに「見た目はカワイイけど、木に登ってドロボーみたいで怖い!」と言っていたのが気になって、後から確認してみた。それまでまったく気にも留めていなかったけれど、なるほど「ドロボーみたい」だ。うん、ドロボーだろこいつ。まったく、子どもの「目」がもたらすこういうひとことにはいつもながらハッとさせられる。通勤途中、網棚の上にうっかり置き忘れてきた「子どもの目」を思い出させてくれるからだろうか。

 ところで、ツイッターでフォロワーさんからもリプライをいただいたけれど、じゃあ「見た目はカワイイ」のかといえばそれもなかなか際どい、インサイド高めギリギリみたいなところを突いている。でも、子どもにウケるものが大人の目からすると理解できないということはままあることだ。子どもの「目」は、成長する過程で一定の社会的規範(コード)によって束ねられてゆくのかな、そして「大人」というのはこうして「結束された子ども」を意味するのかな、などとふと思ったり。とすると、大人にしてなお子どもにウケる作品を生み出すことができるというのは、そういうコードによる束縛からするりと逃れることのできる天賦の才能の持ち主にのみ許された仕事なのだろう。

「ジャズる」と「ロックンロール」

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フランス・ギャルに「ジャズる心」というタイトルの曲があることは、わりかし多くのひとが知っていそうだ。<ドキドキする>とか<ワクワクする>、あるいは<ザワザワする>とか、きっとそんなニュアンスだろう。原題は「Le Cœur Qui Jazze」。「Jazzer」という動詞が使われているので、なるほど「ジャズる」というのは素直な訳なのだなとわかる。英語にも当然「ジャズる」に対応する動詞はあるはずだ。

日本では、浅草「電気館レビュー」昭和4(1929)年の演目に「サロメはジャズる」という作品をみつけることができる。内容は、あの『サロメ』を大胆に翻案したオスカー・ワイルドもびっくりのドタバタ喜劇であったらしい。観てみたい。いずれにせよ、1920年代にジャズが流行るとともに「ジャズる」といった表現も世界中で同時多発的に、パンデミックと言っていいような勢いで蔓延していったと考えてよさそうだ。

それに対して「ロック」はどうだろう。クイーンの有名な「We Will Rock You」の「Rock」の部分は、「オマエのハートを打ち震わせるぜ」みたいに訳されているのを見たことがあるが「ジャズる」みたいな意味なのだろうか?

日本語では、だが、「ロックする」というような使い方はあまり見かけない。なんとなく語呂が悪く落ち着かないし、だいたい「ロックする」では「え、なに? 鍵かけんの?」と勘違いされそうだ。

そこで思い出されるのは、なにかにつけて「ロックンロール!」と口にする内田裕也である。ただ名詞を連呼しているだけにもかかわらず、彼の口から発せられると「叛逆」とか「反骨」といったニュアンスが伝わってくるような気になってしまうのがなんとも不思議だが、じつのところなんの内容も伴われていない。ことあるごとに「グルコサミン!」と叫ぶのとあまり変わらない。すべては内田裕也の<オーラ>のなせるわざであって、「ジャズる」といった用法とはまったく無関係だ。

ふと思い立って、ぼくの大好きなYahoo!知恵袋をのぞいてみたらやっぱりありましたよ、「内田裕也さんがよく言う『ロックンロール』とはどういう意味ですか?」というトピックが。ちゃんと回答もついていてそこにはこう書かれていた。「柳沢慎吾さんの『あばよ』みたいな例えだと思います。」本当かよ。

いいのか? 本当にいいのか?

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小学生のまだ低学年くらいだった頃、親に連れられて入ったソバ屋でテレビを観ていたとき、いまアメリカで話題のバンドみたいな内容でロックバンドの「キッス」が紹介されていて、その白塗りメイクのおどろおどろしさに衝撃をうけソバを口から半分出したまましばし固まってしまったことがある。と思ったら、なんと来月予定されているキッスのライブに合わせてヘルシンキ中央駅に立つ4体の石像に白塗りメイクを施してしまおうというプロジェクトが進行中らしい。きのう、フィンランド在住のえつろさんから教えてもらった。ヘルシンキ駅は1919年竣工の歴史的建造物。いいのか? 本当にいいのか? 学芸員は止めなかったのか? でも、完成したらちょっと見たいな。