moiのブログ 日々のカフェ season3

東京・吉祥寺の北欧カフェ「moi」の店主によるブログです。基本情報は【about】をご覧ください。

26.08.2018-28.08.2018

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◎26.08.2018

 8月最後の日曜日らしい。いかにも、この夏の総決算といった感じでとても静か。

 そんなかスタッフの友人が来てくれたのだが、ときどきそういう人と出くわすことのある、献血が趣味だという男子。「献血男子」。ちなみに、そのスタッフの妹も「献血女子」らしい。ちなみにそのスタッフもぼくも献血は未経験で、「採血のときにはつねに目を逸らす」派。献血好きなひとに言わせると、アイスクリームがもらえる、献血ルームのスタッフの人たちがやさしいなど、献血のメリットはいろいろあるらしいのだが、正直「献血」に恐怖心のある人間にはいまひとつ刺さらない。いいよ、アイスは自分で買うからとか思っちゃう。そういうひと、案外多いのではないか。献血人口を増やすにはではどうしたらよいだろう? 

 たとえば、こんなのはどうか。献血したら、「社会貢献」として会社が半日休暇をくれる。プレミアム献血フライデー。

 

◎27.08.2018

 髪を切るために少し早仕舞いさせていただく。お休み(火曜定休)がかぶっているので、こうでもしないことには伸びた髪の毛すら切れないのである。お客様から「楽しんできてください!」と言われたのだが、なにか勘違いしていないか?(なにか=フィロソフィーのダンスのリリイベ)

 原宿で髪を切っていたら、あまり経験のないような猛烈な雷雨に見舞われる。10秒も間をおかずにドカンドカン、しかもけっこう至近距離に落雷する。電車も当然遅れていたが、無事に家まで辿りついたのが奇跡のよう。とりあえずヘソも無事。

 

◎28.08.2018

 この夏は、ほぼ仕事と仕事についてかんがえることしかしていなかったのだが、きょうはすごく楽しかったし充実した休日だったので、ようやく最後の最後に「夏のおもいで'2018」を手に入れた感じである。

25.08.2018

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 最高気温の予想図をみたら、関東地方一帯がオレンジ色でも赤色でもなく、紫色になっている。これ、黒くなったらすなわち「死」を意味するのだろう。つまり、きょうの気温は「死」の一歩手前ということ。サバイバルだよ、人生は。

 

 ところで、近々イベントをふたつ予定しています。日程のご確認お願いいたします。

★9月8日(土)18時30分より

徳島よりアアルトコーヒーの庄野雄治さんをお迎えします。「内容未定」ですが、庄野さんの好きなミステリ小説について語り倒してもらおうというモイならではの企画を予定。

★9月15日(土)18時30分より

北欧関連の著書も多いライターの萩原健太郎さんをお迎えします。こちらは、「公開取材」という初の試み。フィンランドのカルチャーについて、萩原さんがインタビューし岩間が答えるという構成になるらしいのですが……。全体的には、カジュアルな北欧談義という感じになりそうです。

 参加受付はあらためてご案内させていただきますので、取り急ぎ日程のみ押さえちゃってください!

 

 なお、8月27日(月)は都合により17時30分にて閉店させていただきます。ご不便をおかけいたしますがよろしくお願いいたします。

22.08.2018-24.08.2018

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◎22.08.2018

 平成最後の夏が、しぶとい。

 今年もまた、エアコンの効いた部屋でゴロゴロしながらわけのわからないアメリカのB級映画テレビ東京の「2時のロードショー」で観るとか、視聴者のみなさんから寄せられた心霊写真特集(集合写真で手や足が写っていないのはそんなに心配は要らない)をワイドショーで観るとか、そういった「夏らしいこと」をなにひとつしないままに終わるのだろうなあ。他に「夏らしいこと」が思い浮かばない。せつない。

 夕方、リハ前のチェロしおりさんご来店。スタジオに差し入れるはずのおやつから、カヌレを1個ぶんどる。セボン。

 

◎23.08.2018

 強いて言えば、「じょんご様」の信者である。

 ご存知のない方のために書いておくと、「じょんご様」とは秋田県男鹿半島一帯に古くから伝わる土着の神さま…… などではなく、ジャズサンバを演奏するブラジル・サンパウロ出身のピアノトリオのことなのだが、なぜか荻窪に店があったころから不思議と彼らのCDをかけるとお客様がやってくるのである。以来、ぼくはジョンゴ・トリオを「じょんご様」と崇め、苦しいときの神頼みならぬ苦しいときのジョンゴ・トリオ頼みでピンチを切り抜けているというわけである。そして、今日も今日とてCDをジョンゴ・トリオに替えたとたん、それまで小一時間ちかく客足が途絶えていたにもかかわらず3組続いてやってきた。

 谷保のウィルカフェの来栖さんより、盛岡みやげのコーヒー豆をいただく。「六月の鹿」という風変わりな名前をもつ珈琲屋さん。どこかなつかしい、正しい喫茶店のコーヒーの味がした。それにしてもなんで「鹿」なんだろう? そしてなんで「六月」なんだろう? きっと、お店の人は日に8回はお客さんから店の名前の由来を訊かれてるんだろうなあ。ぼくの予想では、もしかしてオーナーの名前に関係あるんじゃない? 「鹿内潤」とか。(ちがうな)

 

◎24.08.2018

 信号待ち。強い日差しにジリジリ焼かれながら、さすがのオレも今年ばかりはこの凶暴な夏のおかげで日焼けしたにちがいないと、二の腕の裏っ側にふと目をやる。思わず横断歩道で声が出た。白っ!!!

 むかしはたらいていた会社には、その会社が運営にかかわっているカフェがあったのだが、今年とおなじように殺人的な暑さだったある夏の日のこと、エレベーターでそのカフェのマネージャーと乗り合わせた。「こう毎日暑いとさぞかし売上もいいんでしょうね」というぼくの言葉に、彼は首を振ってこう言うのだった。「ひとは、最高気温が30℃くらいのときアイスコーヒーやアイスティーを飲みたくなるんだよ」。なるほど。「そして、32、33℃になると炭酸系を欲するようになる」。ふむふむ。なんかわかる。じゃあ、体温くらいの暑さだと? 「なにも飲まなくなる」。

 あれは本当だったと、この夏、あの日の会話をくりかえし思い出している。

21.08.2018

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 来年の日本フィンランド修好100周年にむけて、全国でさまざまなフィンランド関連イベントがおこなわれている。なかでも、個人的に「目玉」として楽しみにしていたのが、いま目黒区美術館で開催されている『フィンランド陶芸 芸術家たちのユートピア | 目黒区美術館』である(9月6日まで)。

 これまでにも、フィンランドのデザインやデザイナーに特化した展示はたくさんあったが、「陶芸」にスポットをあてたものはめずらしい。しかし、じっさいに足を運んでみると、まず現地に行かないことには見られないようなすぐれた作品が集結しているし、またそうした作品のかたち、色、質感といったものは、やはり実物を見てこそはじめて伝わるものである。こういう「地味イイ企画」というのは、やはりなんとしても観ておくべきだと思う。すくなくとも、ぼくはほんとうに観てよかった。

 

以下は、メモのつもりで印象に残ったことを箇条書きにしておく。

 

ーー スパーレとフィンチ〜ふたりの外国人

 アラビア製陶所につらなるフィンランド陶芸の歴史を遡ってゆくと、そこでふたりのキーパーソンに遭遇する。ひとりは、スウェーデン人ルイス・スパーレであり、もうひとりはイギリス系ベルギー人のアルフレッド・ウィリアム・フィンチである。

 スパーレは、留学先のパリのアカデミー・ジュリアンで後にフィンランドの国民的画家となるアクセリ・ガッレン=カッレラと出会い、意気投合する。ふたりはフィンランドのカレリア地方を旅し、現地の人びとと交流し、またその素朴な手仕事に触れるなかでフィンランドの芸術的資源の豊かさを再発見することになる。当時イギリスの「アーツ・アンド・クラフト運動」にも感化されていたスパーレは、その後フィンランドへの移住を決め、ポルヴォーに「アイリス工房」という名前の店を出す。そこでは、リバティー社の製品のほかオリジナルの家具や雑貨の販売もおこなった。また、その際「陶芸部門」の責任者としてスパーレがフィンランドに呼び寄せたのがフィンチである。

 もともとベルギーではスーラのような緻密な点描で絵を描く作家として知られていたフィンチだが、同時に、イギリスでウィリアム・モリスが提唱し高まりつつあった「アーツ・アンド・クラフツ運動」をベルギーにおいて紹介する陶芸家という顔ももっていた。モリスから影響を受けていたスパーレが目をつけたのは、この「陶芸作家」としてのフィンチであった。スパーレの「アイリス工房」は長くは続かなかったが、フィンチはそのままフィンランドに残り、指導者として多くの作家を育て75歳で亡くなる。

 スパーレとフィンチ、このふたりの外国人がいなければ、おそらくフィンランドの陶芸の歴史はまったくちがったものになったはずである。

 

ーー 外部からのまなざし

 フィンチが「アイリス工房」で手がけた花瓶などをみると、赤土の風合いをそのまま残した素朴なものが多い。これは、フィンランドによい赤土があったためである。「アーツ・アンド・クラフツ運動」に共鳴していたフィンチは、おそらくこの新天地でもその土地のキャラクターに根ざした作品の創造をめざしていたのではなかったか。そして、それはまたスパーレの望むところでもあったはずである。それに対して、フィンチの北欧の教え子たちには赤土をつかったような作品はすくなく、むしろ中央ヨーロッパのトレンドを意識したような作風が多いのが皮肉である。

 

ーー 黎明期の作家たち

エルサ・エレニウスの「青」。キュッリッキ・サルメンハーラの野生的な力強さ。備前焼っぽい。トイニ・ムオナの植物のようなしなり。

 

ーー 誕生したてのミステリアスな国

 他の北欧諸国に量産品の輸出で遅れをとったフィンランドのアラビア製陶所は、美術部門に力を注ぐことで差異化を図ろうとしたらしい。黎明期の作家たちの作品群からは、たしかに恵まれた環境の下、自由に創作に打ち込む様子が伝わってくる。在籍する作家も、フィンランドにかぎらず、スウェーデンオーストリア、またロシアからの亡命者など国際的である。これは環境的に恵まれていたことの証だろう。

 また、まだ独立して日の浅いフィンランドという国は、中央ヨーロッパからすれば「極北に位置するミステリアスな国」であり、それゆえフィンランドの美術品もそうした物珍しさも手伝いかなり需要があったのではないだろうか。それは、1900年の万博をきっかけに「ジャポニスム」が流行したことにも似ている。スオミズム!?

 

ーー ディレクターとして功績とデザイナーとしての失敗

 もっとも「アラビア」を象徴するプロダクトといえば、おそらくカイ・フランクの機能的な美しさをもつ作品といえるだろう。この「アラビア」を方向づけたのは1932年にディレクターに就任したクルト・エクホルムである。彼は、芸術部門(アート・デパートメントを設立し、社内に美術館をつくり、それとはべつに機能主義にもとづいた日用品としての食器の生産にも力を注いだ。これが、後にカイ・フランクらを世に送り出す磁場となる。また、自身デザイナーでもあったエクホルムは、フィンランドを象徴する「白」と「青」をモチーフにしたシンプルなカップ&ソーサーセット「シニヴァルコ(青白)」を発表するが、まだ時代が追いつかず失敗している。フィンランド人は、かならずしも最初からシンプルなものが好きというわけではなかったのだ!!

 

ーー ルート・ブリュックとビルゲル・カイピアイネン

 ルート・ブリュックの陶板画「聖体祭」は今回の展示の目玉のひとつ。田舎の祭りのような素朴な信仰心と美しい色彩、滑らかな質感、こればかりは写真で見ても見たとは言えないだろう。

 「パラティーシ」で知られるビルゲル・カイピアイネンだが、「菫(スミレ)」と題された大きな飾皿がすばらしかった。深く落ち着いた色彩と角度によって変化する質感。今回みたなかで特に印象に残った作品のひとつ。

19.08.2018-20.08.2018

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◎19.08.2018

 ぼくら日本人は、「別荘」と聞くとつい都会の暮らしをまるごと自然の中に移したかのような快適空間を想像しがちである。なので、多くのフィンランド人がそこで長い夏休みを過ごすという「別荘」が、じつは水道すら引いていないようなただの「小屋」であると知ったときはちょっとした衝撃だった。東京タワーや東京駅、それに横浜ベイブリッジなどのライトアップで知られる世界的照明デザイナー石井幹子も、1960年代のなかば、修業のため滞在していたフィンランドでそんな「衝撃」をじかに体験したひとりである。

 彼女を「サマーハウス」に招待したのは、アンティ・ヌルメスニエミとヴォッコ夫妻。夫のアンティは、かわいらしいホーローのコーヒーポットやサウナスツールで知られる「超」がつく有名デザイナー。ほかにも、ヘルシンキを走る地下鉄の朱色の車輌をデザインしたのも彼だったりする。また妻のヴォッコのほうも、マリメッコなどで活躍したやはり著名なテキスタイルデザイナーである。つまり、なにが言いたいかというと「お金持ち」ということである。お金持ちのデザイナー夫妻の「別荘」にお呼ばれしたわけで、当然うつくしいモダンデザインが並ぶリビングや清潔でシンプルな寝室、それにキャビアやらイクラやらが盛り付けられたリッツを沢口靖子が微笑みながら運んでくるカクテルパーティーといった光景が鮮明に思い浮かんだはずである、たぶんね。

 ところが、じっさい招かれた「サマーハウス」はぜんぶで2部屋くらいしかない慎ましい小屋であった。しかも、トイレに行こうとした石井にふたりはトイレットペーパーのロールを手渡し、「お好きな場所でどうぞ」といたずらっぽく外を指差したというのである。これは、なんかちょっとすごい話じゃないか。おそらく石井の世代(1930年代生まれ)であれば、トイレが建物の外に独立してあるとか、水洗じゃないとかくらいならごくふつうに受け入れることができただろう。しかし、ないのである、トイレが。売れっ子デザイナーのくせにドケチなの? 小屋を建てた大工さんがうっかり者で作り忘れちゃったの? それともあれか、トイレを作っちゃダメな宗教の信者?……

 しかし、もちろんそういうわけではない。フィンランド人にとって「別荘」とはなにか? ということがここから見えてくる。

 彼らにとって休暇とは日々の生活からの解放を意味し、休暇を過ごす空間としての「別荘」とはいわば日常を完全にシャットオフするための強制終了ボタンのようなものなのだ。そのため、そこではあらゆる文明を遠ざけ、できうるかぎり自然の状態に還ることをよしとする。このエピソードを知ってからというもの、ぼくのなかでフィンランド人とは「文明をまとった自然児」というイメージができあがった。よく日本人とフィンランド人は似ているなどと言われたりするけれど、こういう点にかんしていえばまったく似ていないなと思う。とはいえ、もちろんすべてのフィンランド人がみなことごとくこういう考えの持ち主というわけではない。じっさい、むかし知り合ったフィンランドの「都会っ子」の女の子は、夏になると家族で水道のないようなサマーハウスで過ごしたりするけれど自分はあまり好きじゃないと言っていた。

 フィンランド人のこうした自然観を知ることは、フィンランドの文化を深く理解する上でもっとも大切なことのように思われる。

 

◎20.08.2018

 なにを買うわけでなく、ただ小一時間ばかり本屋で立ち読みしたり、文房具屋を覗いてみたりと帰りがけに寄り道というほどでもない寄り道をちょっとしてみただけなのだが、それでもじゅうぶん「週末感」が出たのでやっぱり寄り道は大事と思った次第。

16.08.2018-18.08.2018

◎16.08.2018

 朝、その日の様子を予測しながら仕込みの量を決める。できうるかぎりロスは抑えたいので、お天気やここ数日の傾向、曜日ごとの集客力のちがいといった種々の要素を並べ、比較して検討をくわえる。いわゆる経験則である。そしてそれはまた、プロの「勘」が試されるときでもある……。

 だが、しかし、もうまったくといっていいくらいその「勘」が当たらないんだよ。ホント笑っちゃうくらいに当たらない。たとえばオフィス街とかだったら、会社が休みの週末や盆暮れには客が減るみたいな明らかな傾向があるのだろうけれど、こういう立地の、こういう店についていえばそういうのはほぼないに等しい。同じ曜日でも、お客さんがふつうに半減したり倍増したりする。というわけで、本日は早々に売り切れになってしまうメニューなどあり大変失礼いたしました……。

 そういえば、初めてご来店いただいた大学生の女の子から「いつもツイッター見てます」と帰りがけに声をかけていただきドキドキする。というのも、最近ほぼツイッターではフィロソフィーのダンスの話しかしていないからである。後になって判明したのだが、彼女もやはりフィロソフィーのダンスのファンであった。ホッ。それにしても、ファンの年齢層がまちまちな上、女性もけっこう多いのでパッと見ではもはや判断できない。さすがにグッズとか身につけていれば気づくけど。というわけで、フィンランド好きとフィロソフィーのダンス好きとが同居する近頃のモイである。あと、書いていて気づいたが、もしかして俺が好きなのは「フィ」なんじゃないだろうか!?

 

◎17.08.2018

 横浜在住の常連さんが、埼玉県の大宮からの帰途「寄り道」してくださった。いやいや、完全に「寄り道」の範疇を超えちゃっているんですけど……。ありがたい。

 夕方、帰省先のおみやげを届けに元スタッフがふらりと姿をあらわす。聞けば、きょう博多から新幹線で戻ったばかりだという。そして、あすの早朝にはレンタカーで静岡まで1泊2日の旅行に出かけ、帰った翌日からはふつうに6時半出社の日々が待っている。まあ、以前からそんな感じなのでいまさら驚くということもだいぶなくなったが、内心じつは「立ち止まると死んじゃう生きものかなにか」なのだろうとは薄っすら思っている。

 だいぶ少なくなったとはいえ荻窪時代から通いつづけてくださっているお客様に対してはちょっと心のどこかで身内のような、そんな親しさを感じている。きょうは、そんな常連さんのひとりからおめでたい話を聞きいたのだが、十数年という時間の中でいろいろ余計なあれやこれやも知っていたりするせいで、つい、ほっこりするべきところでニヤニヤしてしまう。なにせ「身内」なもので。

 

◎18.08.2018

 1ヶ月前には、もしやもう二度と口にすることがないまま死んでゆくのではないかと思っていた言葉を口にする。「涼しい」……。

 「これぞ夏でしょ」と、入ってくるなり知り合いのフィンランド人が言う。じゃあ、いままでは? と尋ねたらすかさずこんな答えが返ってきた。「地獄だよ」。なるほど。

14.08.2018

◎14.08.2018

 両親を見ていると、体力もだが、年寄りにとってなにより大切なのは気力、言いかえれば「生きることへの意志」なのではないかと感じる。退院後、自宅で療養を続け体力はだいぶ戻ってきたように思える父も、まだまだ気力は回復しきってはいない。それでも体調だけはだいぶよくなってきたようなので、父、それに母を伴い有楽町のとあるお店に行ってきた。

 その店は、1957(昭和32)年に開店したレストランで、いまは喫茶店として営業をつづけているのだが、それを知った両親が以前から訪問したいと口にしていたのである。なんでも、結婚前によくそのお店でデートしていたのだとか。ふたりの言葉を信じれば、約60年ぶりの再訪ということになる。

 さすがに外観こそ変わっているが、両親によると店内の印象は当時とあまり変わっていないらしく、店に入ると同時に、なつかしい、なつかしい、と昔話に花を咲かせていた。家に帰ってからも、ふたりしてまた行きたいなどと言っている。ずいぶんと活力が湧いてきたようだ。とりたてて高級だとか、小洒落ているとかいうわけではないが、それでも、こうやってただ同じ場所に佇んでいるだけでもお店はこんなにもひとに元気をあたえるものなのだ。

 とはいえ、お店はいつか飽きられる。「カフェは5年もてば老舗」とは東京カフェ・マニアでおなじみの川口葉子さんの言葉だが、よほど恵まれた環境にでもないかぎり、せいぜい10年、よくて20年もてば「長命」ということになるのではないか。これはもう、都会の飲食店の抱える「宿命」といっていいと思う。だが、両親のよろこんだ顔を見て、お店がなくなるとはただ文字どおりその場所からひとつの店が姿を消すという以上に、思い出の「受け皿」がこの世から消えるという意味でもあるのだとあらためてかんがえさせられた。

 

◎15.08.2018

 終戦記念日。子供のころ、母親からずいぶん戦時中のつらかった話、悲しかった話など聞かされた。そんな話を聞きながら、日本人はどうしてそんな無茶苦茶な戦争をしなければならなかったのか、子供心にも不思議に思ったものだ。というのも、途中からは「勝てるはずないと思った」「ふつうの人たちはだれも戦争なんて望んではいなかった」などと言い出すからだった。それならば、みんなで「反対」して阻止すればよいものを「反対なんてできるわけがない」などと言う。

 終戦当時まだ小学生だった母親が、はたして実情をどのくらい理解していたかはわからないが、反対もせず、ただ言われるがままに「望みもしない戦争をやっていた」当時の日本の大人たちはアタマがおかしいのではないか、ぼくは話を聞きながらまったく意味が分からなかった。だが、いまならそれが分かる気がする。なるほど、そういうことだったのかと腑に落ちる。

 ここのところ、2年後の東京オリンピックのためのボランティア募集の話題をよくツイッターなどで目にする。この酷暑の中、会社や学校を休んでまでボランティアに参加しようとかんがえるものがどれくらいいるだろう? しかも、内容によってはかなり専門的な知識を必要とされるにもかかわらず、謝礼はおろか交通費すら支給されないという。たいがいは、「だれが参加すんの?」「こんなの人が集まるわけがない」「ぜったいヤダ!」といった感想も一緒に流れてくる。だが、どうだろう? その募集が、もしこんなふうに行われたとしたら……。

 たとえば、会社から「業務命令」に準じるようなかたちでボランティアを要請される。任意だが、参加しなかった場合は査定に影響が出る、とか。あるいは学生だったら、就職したい企業の募集要項に条件として「ボランティアの参加」が明記されていたりしたら、インターンに行った企業で「業務」としてボランティアを命じられたら、拒絶するよりはほんのしばらくの我慢と自分を納得させて参加してしまうのではないか。

 また、もっと周到に、「空気」のようになされることで、結果的に「やりたくないボランティアに参加せざるをえない」状況に巻き込まれることだってあるだろう。

    たとえば、学校のPTAや町内会、商店会などの組織として「協力」する場合がそれにあたる。本音ではやりたくなくても、みんなで分担する仕事としてそれがあるとき、「私は参加しません」とはなかなか言いづらいのではないだろうか? なぜなら、他のみんなも「参加したくない」という気持ちでは同じだからである。参加を拒否すれば、当然あのひとは「みんな仕方なくやっているのにズルい」「協調性がない」「身勝手」などと陰口を言われ、非難されるのはまちがいない。そこから「非国民」と呼ばれるまではもうすぐだ。

    正直なところ、いますぐ「戦争」が起こるなどとはぼくは考えない。ただ、火のないところに煙は立たないというように、戦争が起こるにもそれなりの「下地」が必要であり、そういった「下地」に関してはいえば着々と醸成されつつあるのは間違いないように感じる。

    「多数決をとります!戦争をやりたいひと、手を挙げて!」なんていうふうに戦争は始まらない。戦争は気づかないところで始まり、気がついたときにはもう引き下がれないところまできているのである。

    いま、あらためて思い起こすと、母親の「ふつうのひとは戦争なんて望んでいなかったのに、気づいたら戦争が始まっていた。気づいたときにはもう反対なんてできなかった」という言葉はとてもリアルである。もし戦争を望まないのなら、そうした「下地」をつくらせないことがなにより大切であり、そのためにはなにか別のかたちを装ってなされる全体主義の「芽」を、見つけた端から摘み取っては捨て去らなければならない。そして、それはいましかやれないことである。