moiのブログ 日々のカフェ season3

東京・吉祥寺の北欧カフェ「moi」の店主によるブログです。基本情報は【about】をご覧ください。

21.08.2018

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 来年の日本フィンランド修好100周年にむけて、全国でさまざまなフィンランド関連イベントがおこなわれている。なかでも、個人的に「目玉」として楽しみにしていたのが、いま目黒区美術館で開催されている『フィンランド陶芸 芸術家たちのユートピア | 目黒区美術館』である(9月6日まで)。

 これまでにも、フィンランドのデザインやデザイナーに特化した展示はたくさんあったが、「陶芸」にスポットをあてたものはめずらしい。しかし、じっさいに足を運んでみると、まず現地に行かないことには見られないようなすぐれた作品が集結しているし、またそうした作品のかたち、色、質感といったものは、やはり実物を見てこそはじめて伝わるものである。こういう「地味イイ企画」というのは、やはりなんとしても観ておくべきだと思う。すくなくとも、ぼくはほんとうに観てよかった。

 

以下は、メモのつもりで印象に残ったことを箇条書きにしておく。

 

ーー スパーレとフィンチ〜ふたりの外国人

 アラビア製陶所につらなるフィンランド陶芸の歴史を遡ってゆくと、そこでふたりのキーパーソンに遭遇する。ひとりは、スウェーデン人ルイス・スパーレであり、もうひとりはイギリス系ベルギー人のアルフレッド・ウィリアム・フィンチである。

 スパーレは、留学先のパリのアカデミー・ジュリアンで後にフィンランドの国民的画家となるアクセリ・ガッレン=カッレラと出会い、意気投合する。ふたりはフィンランドのカレリア地方を旅し、現地の人びとと交流し、またその素朴な手仕事に触れるなかでフィンランドの芸術的資源の豊かさを再発見することになる。当時イギリスの「アーツ・アンド・クラフト運動」にも感化されていたスパーレは、その後フィンランドへの移住を決め、ポルヴォーに「アイリス工房」という名前の店を出す。そこでは、リバティー社の製品のほかオリジナルの家具や雑貨の販売もおこなった。また、その際「陶芸部門」の責任者としてスパーレがフィンランドに呼び寄せたのがフィンチである。

 もともとベルギーではスーラのような緻密な点描で絵を描く作家として知られていたフィンチだが、同時に、イギリスでウィリアム・モリスが提唱し高まりつつあった「アーツ・アンド・クラフツ運動」をベルギーにおいて紹介する陶芸家という顔ももっていた。モリスから影響を受けていたスパーレが目をつけたのは、この「陶芸作家」としてのフィンチであった。スパーレの「アイリス工房」は長くは続かなかったが、フィンチはそのままフィンランドに残り、指導者として多くの作家を育て75歳で亡くなる。

 スパーレとフィンチ、このふたりの外国人がいなければ、おそらくフィンランドの陶芸の歴史はまったくちがったものになったはずである。

 

ーー 外部からのまなざし

 フィンチが「アイリス工房」で手がけた花瓶などをみると、赤土の風合いをそのまま残した素朴なものが多い。これは、フィンランドによい赤土があったためである。「アーツ・アンド・クラフツ運動」に共鳴していたフィンチは、おそらくこの新天地でもその土地のキャラクターに根ざした作品の創造をめざしていたのではなかったか。そして、それはまたスパーレの望むところでもあったはずである。それに対して、フィンチの北欧の教え子たちには赤土をつかったような作品はすくなく、むしろ中央ヨーロッパのトレンドを意識したような作風が多いのが皮肉である。

 

ーー 黎明期の作家たち

エルサ・エレニウスの「青」。キュッリッキ・サルメンハーラの野生的な力強さ。備前焼っぽい。トイニ・ムオナの植物のようなしなり。

 

ーー 誕生したてのミステリアスな国

 他の北欧諸国に量産品の輸出で遅れをとったフィンランドのアラビア製陶所は、美術部門に力を注ぐことで差異化を図ろうとしたらしい。黎明期の作家たちの作品群からは、たしかに恵まれた環境の下、自由に創作に打ち込む様子が伝わってくる。在籍する作家も、フィンランドにかぎらず、スウェーデンオーストリア、またロシアからの亡命者など国際的である。これは環境的に恵まれていたことの証だろう。

 また、まだ独立して日の浅いフィンランドという国は、中央ヨーロッパからすれば「極北に位置するミステリアスな国」であり、それゆえフィンランドの美術品もそうした物珍しさも手伝いかなり需要があったのではないだろうか。それは、1900年の万博をきっかけに「ジャポニスム」が流行したことにも似ている。スオミズム!?

 

ーー ディレクターとして功績とデザイナーとしての失敗

 もっとも「アラビア」を象徴するプロダクトといえば、おそらくカイ・フランクの機能的な美しさをもつ作品といえるだろう。この「アラビア」を方向づけたのは1932年にディレクターに就任したクルト・エクホルムである。彼は、芸術部門(アート・デパートメントを設立し、社内に美術館をつくり、それとはべつに機能主義にもとづいた日用品としての食器の生産にも力を注いだ。これが、後にカイ・フランクらを世に送り出す磁場となる。また、自身デザイナーでもあったエクホルムは、フィンランドを象徴する「白」と「青」をモチーフにしたシンプルなカップ&ソーサーセット「シニヴァルコ(青白)」を発表するが、まだ時代が追いつかず失敗している。フィンランド人は、かならずしも最初からシンプルなものが好きというわけではなかったのだ!!

 

ーー ルート・ブリュックとビルゲル・カイピアイネン

 ルート・ブリュックの陶板画「聖体祭」は今回の展示の目玉のひとつ。田舎の祭りのような素朴な信仰心と美しい色彩、滑らかな質感、こればかりは写真で見ても見たとは言えないだろう。

 「パラティーシ」で知られるビルゲル・カイピアイネンだが、「菫(スミレ)」と題された大きな飾皿がすばらしかった。深く落ち着いた色彩と角度によって変化する質感。今回みたなかで特に印象に残った作品のひとつ。

19.08.2018-20.08.2018

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◎19.08.2018

 ぼくら日本人は、「別荘」と聞くとつい都会の暮らしをまるごと自然の中に移したかのような快適空間を想像しがちである。なので、多くのフィンランド人がそこで長い夏休みを過ごすという「別荘」が、じつは水道すら引いていないようなただの「小屋」であると知ったときはちょっとした衝撃だった。東京タワーや東京駅、それに横浜ベイブリッジなどのライトアップで知られる世界的照明デザイナー石井幹子も、1960年代のなかば、修業のため滞在していたフィンランドでそんな「衝撃」をじかに体験したひとりである。

 彼女を「サマーハウス」に招待したのは、アンティ・ヌルメスニエミとヴォッコ夫妻。夫のアンティは、かわいらしいホーローのコーヒーポットやサウナスツールで知られる「超」がつく有名デザイナー。ほかにも、ヘルシンキを走る地下鉄の朱色の車輌をデザインしたのも彼だったりする。また妻のヴォッコのほうも、マリメッコなどで活躍したやはり著名なテキスタイルデザイナーである。つまり、なにが言いたいかというと「お金持ち」ということである。お金持ちのデザイナー夫妻の「別荘」にお呼ばれしたわけで、当然うつくしいモダンデザインが並ぶリビングや清潔でシンプルな寝室、それにキャビアやらイクラやらが盛り付けられたリッツを沢口靖子が微笑みながら運んでくるカクテルパーティーといった光景が鮮明に思い浮かんだはずである、たぶんね。

 ところが、じっさい招かれた「サマーハウス」はぜんぶで2部屋くらいしかない慎ましい小屋であった。しかも、トイレに行こうとした石井にふたりはトイレットペーパーのロールを手渡し、「お好きな場所でどうぞ」といたずらっぽく外を指差したというのである。これは、なんかちょっとすごい話じゃないか。おそらく石井の世代(1930年代生まれ)であれば、トイレが建物の外に独立してあるとか、水洗じゃないとかくらいならごくふつうに受け入れることができただろう。しかし、ないのである、トイレが。売れっ子デザイナーのくせにドケチなの? 小屋を建てた大工さんがうっかり者で作り忘れちゃったの? それともあれか、トイレを作っちゃダメな宗教の信者?……

 しかし、もちろんそういうわけではない。フィンランド人にとって「別荘」とはなにか? ということがここから見えてくる。

 彼らにとって休暇とは日々の生活からの解放を意味し、休暇を過ごす空間としての「別荘」とはいわば日常を完全にシャットオフするための強制終了ボタンのようなものなのだ。そのため、そこではあらゆる文明を遠ざけ、できうるかぎり自然の状態に還ることをよしとする。このエピソードを知ってからというもの、ぼくのなかでフィンランド人とは「文明をまとった自然児」というイメージができあがった。よく日本人とフィンランド人は似ているなどと言われたりするけれど、こういう点にかんしていえばまったく似ていないなと思う。とはいえ、もちろんすべてのフィンランド人がみなことごとくこういう考えの持ち主というわけではない。じっさい、むかし知り合ったフィンランドの「都会っ子」の女の子は、夏になると家族で水道のないようなサマーハウスで過ごしたりするけれど自分はあまり好きじゃないと言っていた。

 フィンランド人のこうした自然観を知ることは、フィンランドの文化を深く理解する上でもっとも大切なことのように思われる。

 

◎20.08.2018

 なにを買うわけでなく、ただ小一時間ばかり本屋で立ち読みしたり、文房具屋を覗いてみたりと帰りがけに寄り道というほどでもない寄り道をちょっとしてみただけなのだが、それでもじゅうぶん「週末感」が出たのでやっぱり寄り道は大事と思った次第。

16.08.2018-18.08.2018

◎16.08.2018

 朝、その日の様子を予測しながら仕込みの量を決める。できうるかぎりロスは抑えたいので、お天気やここ数日の傾向、曜日ごとの集客力のちがいといった種々の要素を並べ、比較して検討をくわえる。いわゆる経験則である。そしてそれはまた、プロの「勘」が試されるときでもある……。

 だが、しかし、もうまったくといっていいくらいその「勘」が当たらないんだよ。ホント笑っちゃうくらいに当たらない。たとえばオフィス街とかだったら、会社が休みの週末や盆暮れには客が減るみたいな明らかな傾向があるのだろうけれど、こういう立地の、こういう店についていえばそういうのはほぼないに等しい。同じ曜日でも、お客さんがふつうに半減したり倍増したりする。というわけで、本日は早々に売り切れになってしまうメニューなどあり大変失礼いたしました……。

 そういえば、初めてご来店いただいた大学生の女の子から「いつもツイッター見てます」と帰りがけに声をかけていただきドキドキする。というのも、最近ほぼツイッターではフィロソフィーのダンスの話しかしていないからである。後になって判明したのだが、彼女もやはりフィロソフィーのダンスのファンであった。ホッ。それにしても、ファンの年齢層がまちまちな上、女性もけっこう多いのでパッと見ではもはや判断できない。さすがにグッズとか身につけていれば気づくけど。というわけで、フィンランド好きとフィロソフィーのダンス好きとが同居する近頃のモイである。あと、書いていて気づいたが、もしかして俺が好きなのは「フィ」なんじゃないだろうか!?

 

◎17.08.2018

 横浜在住の常連さんが、埼玉県の大宮からの帰途「寄り道」してくださった。いやいや、完全に「寄り道」の範疇を超えちゃっているんですけど……。ありがたい。

 夕方、帰省先のおみやげを届けに元スタッフがふらりと姿をあらわす。聞けば、きょう博多から新幹線で戻ったばかりだという。そして、あすの早朝にはレンタカーで静岡まで1泊2日の旅行に出かけ、帰った翌日からはふつうに6時半出社の日々が待っている。まあ、以前からそんな感じなのでいまさら驚くということもだいぶなくなったが、内心じつは「立ち止まると死んじゃう生きものかなにか」なのだろうとは薄っすら思っている。

 だいぶ少なくなったとはいえ荻窪時代から通いつづけてくださっているお客様に対してはちょっと心のどこかで身内のような、そんな親しさを感じている。きょうは、そんな常連さんのひとりからおめでたい話を聞きいたのだが、十数年という時間の中でいろいろ余計なあれやこれやも知っていたりするせいで、つい、ほっこりするべきところでニヤニヤしてしまう。なにせ「身内」なもので。

 

◎18.08.2018

 1ヶ月前には、もしやもう二度と口にすることがないまま死んでゆくのではないかと思っていた言葉を口にする。「涼しい」……。

 「これぞ夏でしょ」と、入ってくるなり知り合いのフィンランド人が言う。じゃあ、いままでは? と尋ねたらすかさずこんな答えが返ってきた。「地獄だよ」。なるほど。

14.08.2018

◎14.08.2018

 両親を見ていると、体力もだが、年寄りにとってなにより大切なのは気力、言いかえれば「生きることへの意志」なのではないかと感じる。退院後、自宅で療養を続け体力はだいぶ戻ってきたように思える父も、まだまだ気力は回復しきってはいない。それでも体調だけはだいぶよくなってきたようなので、父、それに母を伴い有楽町のとあるお店に行ってきた。

 その店は、1957(昭和32)年に開店したレストランで、いまは喫茶店として営業をつづけているのだが、それを知った両親が以前から訪問したいと口にしていたのである。なんでも、結婚前によくそのお店でデートしていたのだとか。ふたりの言葉を信じれば、約60年ぶりの再訪ということになる。

 さすがに外観こそ変わっているが、両親によると店内の印象は当時とあまり変わっていないらしく、店に入ると同時に、なつかしい、なつかしい、と昔話に花を咲かせていた。家に帰ってからも、ふたりしてまた行きたいなどと言っている。ずいぶんと活力が湧いてきたようだ。とりたてて高級だとか、小洒落ているとかいうわけではないが、それでも、こうやってただ同じ場所に佇んでいるだけでもお店はこんなにもひとに元気をあたえるものなのだ。

 とはいえ、お店はいつか飽きられる。「カフェは5年もてば老舗」とは東京カフェ・マニアでおなじみの川口葉子さんの言葉だが、よほど恵まれた環境にでもないかぎり、せいぜい10年、よくて20年もてば「長命」ということになるのではないか。これはもう、都会の飲食店の抱える「宿命」といっていいと思う。だが、両親のよろこんだ顔を見て、お店がなくなるとはただ文字どおりその場所からひとつの店が姿を消すという以上に、思い出の「受け皿」がこの世から消えるという意味でもあるのだとあらためてかんがえさせられた。

 

◎15.08.2018

 終戦記念日。子供のころ、母親からずいぶん戦時中のつらかった話、悲しかった話など聞かされた。そんな話を聞きながら、日本人はどうしてそんな無茶苦茶な戦争をしなければならなかったのか、子供心にも不思議に思ったものだ。というのも、途中からは「勝てるはずないと思った」「ふつうの人たちはだれも戦争なんて望んではいなかった」などと言い出すからだった。それならば、みんなで「反対」して阻止すればよいものを「反対なんてできるわけがない」などと言う。

 終戦当時まだ小学生だった母親が、はたして実情をどのくらい理解していたかはわからないが、反対もせず、ただ言われるがままに「望みもしない戦争をやっていた」当時の日本の大人たちはアタマがおかしいのではないか、ぼくは話を聞きながらまったく意味が分からなかった。だが、いまならそれが分かる気がする。なるほど、そういうことだったのかと腑に落ちる。

 ここのところ、2年後の東京オリンピックのためのボランティア募集の話題をよくツイッターなどで目にする。この酷暑の中、会社や学校を休んでまでボランティアに参加しようとかんがえるものがどれくらいいるだろう? しかも、内容によってはかなり専門的な知識を必要とされるにもかかわらず、謝礼はおろか交通費すら支給されないという。たいがいは、「だれが参加すんの?」「こんなの人が集まるわけがない」「ぜったいヤダ!」といった感想も一緒に流れてくる。だが、どうだろう? その募集が、もしこんなふうに行われたとしたら……。

 たとえば、会社から「業務命令」に準じるようなかたちでボランティアを要請される。任意だが、参加しなかった場合は査定に影響が出る、とか。あるいは学生だったら、就職したい企業の募集要項に条件として「ボランティアの参加」が明記されていたりしたら、インターンに行った企業で「業務」としてボランティアを命じられたら、拒絶するよりはほんのしばらくの我慢と自分を納得させて参加してしまうのではないか。

 また、もっと周到に、「空気」のようになされることで、結果的に「やりたくないボランティアに参加せざるをえない」状況に巻き込まれることだってあるだろう。

    たとえば、学校のPTAや町内会、商店会などの組織として「協力」する場合がそれにあたる。本音ではやりたくなくても、みんなで分担する仕事としてそれがあるとき、「私は参加しません」とはなかなか言いづらいのではないだろうか? なぜなら、他のみんなも「参加したくない」という気持ちでは同じだからである。参加を拒否すれば、当然あのひとは「みんな仕方なくやっているのにズルい」「協調性がない」「身勝手」などと陰口を言われ、非難されるのはまちがいない。そこから「非国民」と呼ばれるまではもうすぐだ。

    正直なところ、いますぐ「戦争」が起こるなどとはぼくは考えない。ただ、火のないところに煙は立たないというように、戦争が起こるにもそれなりの「下地」が必要であり、そういった「下地」に関してはいえば着々と醸成されつつあるのは間違いないように感じる。

    「多数決をとります!戦争をやりたいひと、手を挙げて!」なんていうふうに戦争は始まらない。戦争は気づかないところで始まり、気がついたときにはもう引き下がれないところまできているのである。

    いま、あらためて思い起こすと、母親の「ふつうのひとは戦争なんて望んでいなかったのに、気づいたら戦争が始まっていた。気づいたときにはもう反対なんてできなかった」という言葉はとてもリアルである。もし戦争を望まないのなら、そうした「下地」をつくらせないことがなにより大切であり、そのためにはなにか別のかたちを装ってなされる全体主義の「芽」を、見つけた端から摘み取っては捨て去らなければならない。そして、それはいましかやれないことである。

 

13.08.2018

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 相変わらず人通りは少ないが、きょうはとりわけ常連さんがたくさん来てくださった。さらに、昔はたらいていたスタッフもふたり。ひとりは、先月行ったスウェーデンのおみやげを届けにきてくれた。もっとも印象に残ったスポットは、スカンセンやローゼンダールのあるユールゴーデン島とのこと。おみやげにストックホルムのカフェ「DROP」のコーヒー豆。もうひとりは、去年まで手伝ってくれていたスタッフがうれしい報告をしに。みつ豆ももらった。べつにそういうしきたりがあるわけじゃないが、なぜか歴代のスタッフはみな甘いおやつを差し入れてくれるのだ。

 午後2時すぎくらいから急に空模様があやしくなってきたと思ったら、滝のような雨、そして風。次第に雷も激しくなり、近いところにドカドカ落ちはじめる。これはヤバいと思うまもなく停電。5分ちょっとのことだったと思うけれど、ちょうど注文の品をこしらえている最中だったのでまいった。じつは数年前のおなじころ、雷の直撃でブレーカーを壊され交換に数万円とられるという悪夢のような出来事があって以来、カミナリはトラウマである。7月の「四万六千日(しまんろくせんにち)」には浅草寺護国寺で雷除けのお守りが配られるが、毎年もらいに行こうかと本気で悩むほど。ちなみに、「四万六千日」といえば落語の「船徳」である。この時期の寄席でよくかかる。けっきょく、とくに電気製品がやられた様子もなくホッとしたが肝を冷やした。

 とはいえ、「一人あたりのキャンドル消費量世界一」を誇る国を愛するカフェゆえ、こういうときの備えは万全である。じっさいには、各テーブルに置こうとしたとたん電気が復帰してしまったのだけれど、せっかくなのでそのままキャンドルサービスでお・も・て・な・し。(画像は当店で常備しているキャンドルホルダーの一部。イーッタラの製品に囲まれて、放射状の光を放っているのは当店のカップ&ソーサーセットをデザインしてくださった梅田弘樹さんの作品「LUMI(雪)」)

12.08.2018

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 「陸の孤島」からコンニチハ。お盆休みに淡い期待をよせていた自分がバカでした。人いねーじゃねーか!! そして賢明なるご近所さんはといえば、なんてことでしょう、みんなお休みやん!! 

 傷心のまま、夕刻おもてに出て写真を撮ってみたところ、なんか変に雰囲気のある絵が撮れてしまいました。いやいや、そうじゃなくて、伝えたいのは「危機感」とか「切迫感」なんですけどね。とはいえ、たしかにこのオレンジ色の灯はなかなか悪くない。エットーレ・スコラ監督に『BARに灯ともる頃』という作品があるが、その映画にちょうどこんな「オレンジ色の灯」が印象的な港町のバーが出てくるのだ。

 『BARに灯ともる頃』は、イタリアの港町を舞台に、毎度おなじみマストロヤンニ扮する親馬鹿なパパと、離れて暮らす思春期の息子との心の機微を描いた激甘なホームドラマである。こういう、いかにもイタリアって感じの「家族愛」を描かせたらスコラ監督の右に出る者はいないのではないか。

 そのドラマのなかに登場する「オレンジ色の灯」のバーは息子の行きつけの店で、常連客とはみな顔見知り、店の主人からは息子のように可愛がられ、ときには店の手伝いをしたりもする。そして、この店で、自分には見せたことのない生き生きとした息子の表情に接したパパ・マストロヤンニは、これまでの「愛情の押し売り」を反省し「子離れ」を誓いバーの扉をそっと閉めるのだった。最後に観たのがもうかれこれ十数年も前なのであやしいところもあるが、夜の港町にそこだけポッと光る「オレンジ色の灯」のバーの役どころはだいたいそんなところだったように思う。

 暗く寂しい街の片隅にぽつねんと佇みほんのりオレンジ色の灯をともす店こそは、それゆえ、すべての人をやさしく包み込み、それぞれの人生にそっと寄り添う「理想の店」の姿でもある。ひとの気配の消えたお盆休みの街はずれ、偶然写された「オレンジ色の灯」にふと忘れかけていた「理想」を思い出す。

10.08.2018-11.08.2018

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◎10.08.2018

 お客様から聞いた話。そのお客様がはたらいているオフィスはなかなか国際的で、同僚にはポルトガル人やインド人がいたり、みな世界各地を飛び回って仕事していたりするらしいのだが、そうした同僚たちが口を揃えて「いまの東京のほうが暑い」と言うのだそうだ。

    そんななか、唯一サウジアラビアから帰国したばかりのひとだけは東京のほうがマシと言ったらしい。がぜんサウジアラビアに行ってみたくなるよね。辛いのが好きなひとが、より辛いものを欲する心理か。いよいよ病んできた。

 そろそろ、きょうあたりからお盆休みに突入したひとが多そうだ。というわけで、ここで当店の「お盆休みのお知らせ」です。

ーー  ないです。(来てね)

 お盆休みが関係あるのかないのか知らないが、お客様の動きがまったく読めない1日。開店早々、一気にご来店いただきバタついたかと思えば、その後はパッタリ止まるといった具合。おかげで、わざわざ2時間かけてクルマでお越しいただいた「フィンランド」と「ウマ」というナゾの共通項を持つひさびさのお客様とゆっくりお話しすることができたけれど。

 さて、閉店時間を延長した「ナツモイ」も本日で無事終了。期間中、途中下車して、また遠回りして、あるいはわざわざ反対方向の電車にのってご来店いただいたみなさま、どうもありがとうございました!! ラストは、いつもぼくの「細かすぎて伝わらない」ネタの聞き役になってくださるAさんから貴重なサジェスションをいただく。楽しすぎた。

 

◎11.08.2018

    仕込みを手伝ってくれているスタッフも休暇から戻り、本日よりメニューも通常モードに。

    ところで、「外郎(ういろう)」といえば名古屋というイメージがあるのだが、郷里の山口の「外郎」も美味しいのでぜひ食べてみて欲しいとスタッフがお土産に買ってきてくれた。なるほど、名古屋のそれとは食感がまるで違う。名古屋のにくらべるとよりツルッとしてなめらか。調べてみたら、原料がそれぞれ「米粉」と「わらび粉」で違うのだった。それで「わらび餅」のような食感だったのか。納得。

    朝から怪しげな空模様であったが、14時を回ったあたりから断続的に夕立ちに見舞われる。こんなお天気の前では、ちいさな店なんてひとたまりもないのであった。完全に降り止んでから少し客足が戻るも、万事休す。