16.08.2018-18.08.2018
◎16.08.2018
朝、その日の様子を予測しながら仕込みの量を決める。できうるかぎりロスは抑えたいので、お天気やここ数日の傾向、曜日ごとの集客力のちがいといった種々の要素を並べ、比較して検討をくわえる。いわゆる経験則である。そしてそれはまた、プロの「勘」が試されるときでもある……。
だが、しかし、もうまったくといっていいくらいその「勘」が当たらないんだよ。ホント笑っちゃうくらいに当たらない。たとえばオフィス街とかだったら、会社が休みの週末や盆暮れには客が減るみたいな明らかな傾向があるのだろうけれど、こういう立地の、こういう店についていえばそういうのはほぼないに等しい。同じ曜日でも、お客さんがふつうに半減したり倍増したりする。というわけで、本日は早々に売り切れになってしまうメニューなどあり大変失礼いたしました……。
そういえば、初めてご来店いただいた大学生の女の子から「いつもツイッター見てます」と帰りがけに声をかけていただきドキドキする。というのも、最近ほぼツイッターではフィロソフィーのダンスの話しかしていないからである。後になって判明したのだが、彼女もやはりフィロソフィーのダンスのファンであった。ホッ。それにしても、ファンの年齢層がまちまちな上、女性もけっこう多いのでパッと見ではもはや判断できない。さすがにグッズとか身につけていれば気づくけど。というわけで、フィンランド好きとフィロソフィーのダンス好きとが同居する近頃のモイである。あと、書いていて気づいたが、もしかして俺が好きなのは「フィ」なんじゃないだろうか!?
◎17.08.2018
横浜在住の常連さんが、埼玉県の大宮からの帰途「寄り道」してくださった。いやいや、完全に「寄り道」の範疇を超えちゃっているんですけど……。ありがたい。
夕方、帰省先のおみやげを届けに元スタッフがふらりと姿をあらわす。聞けば、きょう博多から新幹線で戻ったばかりだという。そして、あすの早朝にはレンタカーで静岡まで1泊2日の旅行に出かけ、帰った翌日からはふつうに6時半出社の日々が待っている。まあ、以前からそんな感じなのでいまさら驚くということもだいぶなくなったが、内心じつは「立ち止まると死んじゃう生きものかなにか」なのだろうとは薄っすら思っている。
だいぶ少なくなったとはいえ、荻窪時代から通いつづけてくださっているお客様に対してはちょっと心のどこかで身内のような、そんな親しさを感じている。きょうは、そんな常連さんのひとりからおめでたい話を聞きいたのだが、十数年という時間の中でいろいろ余計なあれやこれやも知っていたりするせいで、つい、ほっこりするべきところでニヤニヤしてしまう。なにせ「身内」なもので。
◎18.08.2018
1ヶ月前には、もしやもう二度と口にすることがないまま死んでゆくのではないかと思っていた言葉を口にする。「涼しい」……。
「これぞ夏でしょ」と、入ってくるなり知り合いのフィンランド人が言う。じゃあ、いままでは? と尋ねたらすかさずこんな答えが返ってきた。「地獄だよ」。なるほど。
14.08.2018
◎14.08.2018
両親を見ていると、体力もだが、年寄りにとってなにより大切なのは気力、言いかえれば「生きることへの意志」なのではないかと感じる。退院後、自宅で療養を続け体力はだいぶ戻ってきたように思える父も、まだまだ気力は回復しきってはいない。それでも体調だけはだいぶよくなってきたようなので、父、それに母を伴い有楽町のとあるお店に行ってきた。
その店は、1957(昭和32)年に開店したレストランで、いまは喫茶店として営業をつづけているのだが、それを知った両親が以前から訪問したいと口にしていたのである。なんでも、結婚前によくそのお店でデートしていたのだとか。ふたりの言葉を信じれば、約60年ぶりの再訪ということになる。
さすがに外観こそ変わっているが、両親によると店内の印象は当時とあまり変わっていないらしく、店に入ると同時に、なつかしい、なつかしい、と昔話に花を咲かせていた。家に帰ってからも、ふたりしてまた行きたいなどと言っている。ずいぶんと活力が湧いてきたようだ。とりたてて高級だとか、小洒落ているとかいうわけではないが、それでも、こうやってただ同じ場所に佇んでいるだけでもお店はこんなにもひとに元気をあたえるものなのだ。
とはいえ、お店はいつか飽きられる。「カフェは5年もてば老舗」とは東京カフェ・マニアでおなじみの川口葉子さんの言葉だが、よほど恵まれた環境にでもないかぎり、せいぜい10年、よくて20年もてば「長命」ということになるのではないか。これはもう、都会の飲食店の抱える「宿命」といっていいと思う。だが、両親のよろこんだ顔を見て、お店がなくなるとはただ文字どおりその場所からひとつの店が姿を消すという以上に、思い出の「受け皿」がこの世から消えるという意味でもあるのだとあらためてかんがえさせられた。
◎15.08.2018
終戦記念日。子供のころ、母親からずいぶん戦時中のつらかった話、悲しかった話など聞かされた。そんな話を聞きながら、日本人はどうしてそんな無茶苦茶な戦争をしなければならなかったのか、子供心にも不思議に思ったものだ。というのも、途中からは「勝てるはずないと思った」「ふつうの人たちはだれも戦争なんて望んではいなかった」などと言い出すからだった。それならば、みんなで「反対」して阻止すればよいものを「反対なんてできるわけがない」などと言う。
終戦当時まだ小学生だった母親が、はたして実情をどのくらい理解していたかはわからないが、反対もせず、ただ言われるがままに「望みもしない戦争をやっていた」当時の日本の大人たちはアタマがおかしいのではないか、ぼくは話を聞きながらまったく意味が分からなかった。だが、いまならそれが分かる気がする。なるほど、そういうことだったのかと腑に落ちる。
ここのところ、2年後の東京オリンピックのためのボランティア募集の話題をよくツイッターなどで目にする。この酷暑の中、会社や学校を休んでまでボランティアに参加しようとかんがえるものがどれくらいいるだろう? しかも、内容によってはかなり専門的な知識を必要とされるにもかかわらず、謝礼はおろか交通費すら支給されないという。たいがいは、「だれが参加すんの?」「こんなの人が集まるわけがない」「ぜったいヤダ!」といった感想も一緒に流れてくる。だが、どうだろう? その募集が、もしこんなふうに行われたとしたら……。
たとえば、会社から「業務命令」に準じるようなかたちでボランティアを要請される。任意だが、参加しなかった場合は査定に影響が出る、とか。あるいは学生だったら、就職したい企業の募集要項に条件として「ボランティアの参加」が明記されていたりしたら、インターンに行った企業で「業務」としてボランティアを命じられたら、拒絶するよりはほんのしばらくの我慢と自分を納得させて参加してしまうのではないか。
また、もっと周到に、「空気」のようになされることで、結果的に「やりたくないボランティアに参加せざるをえない」状況に巻き込まれることだってあるだろう。
たとえば、学校のPTAや町内会、商店会などの組織として「協力」する場合がそれにあたる。本音ではやりたくなくても、みんなで分担する仕事としてそれがあるとき、「私は参加しません」とはなかなか言いづらいのではないだろうか? なぜなら、他のみんなも「参加したくない」という気持ちでは同じだからである。参加を拒否すれば、当然あのひとは「みんな仕方なくやっているのにズルい」「協調性がない」「身勝手」などと陰口を言われ、非難されるのはまちがいない。そこから「非国民」と呼ばれるまではもうすぐだ。
正直なところ、いますぐ「戦争」が起こるなどとはぼくは考えない。ただ、火のないところに煙は立たないというように、戦争が起こるにもそれなりの「下地」が必要であり、そういった「下地」に関してはいえば着々と醸成されつつあるのは間違いないように感じる。
「多数決をとります!戦争をやりたいひと、手を挙げて!」なんていうふうに戦争は始まらない。戦争は気づかないところで始まり、気がついたときにはもう引き下がれないところまできているのである。
いま、あらためて思い起こすと、母親の「ふつうのひとは戦争なんて望んでいなかったのに、気づいたら戦争が始まっていた。気づいたときにはもう反対なんてできなかった」という言葉はとてもリアルである。もし戦争を望まないのなら、そうした「下地」をつくらせないことがなにより大切であり、そのためにはなにか別のかたちを装ってなされる全体主義の「芽」を、見つけた端から摘み取っては捨て去らなければならない。そして、それはいましかやれないことである。
13.08.2018
相変わらず人通りは少ないが、きょうはとりわけ常連さんがたくさん来てくださった。さらに、昔はたらいていたスタッフもふたり。ひとりは、先月行ったスウェーデンのおみやげを届けにきてくれた。もっとも印象に残ったスポットは、スカンセンやローゼンダールのあるユールゴーデン島とのこと。おみやげにストックホルムのカフェ「DROP」のコーヒー豆。もうひとりは、去年まで手伝ってくれていたスタッフがうれしい報告をしに。みつ豆ももらった。べつにそういうしきたりがあるわけじゃないが、なぜか歴代のスタッフはみな甘いおやつを差し入れてくれるのだ。
午後2時すぎくらいから急に空模様があやしくなってきたと思ったら、滝のような雨、そして風。次第に雷も激しくなり、近いところにドカドカ落ちはじめる。これはヤバいと思うまもなく停電。5分ちょっとのことだったと思うけれど、ちょうど注文の品をこしらえている最中だったのでまいった。じつは数年前のおなじころ、雷の直撃でブレーカーを壊され交換に数万円とられるという悪夢のような出来事があって以来、カミナリはトラウマである。7月の「四万六千日(しまんろくせんにち)」には浅草寺や護国寺で雷除けのお守りが配られるが、毎年もらいに行こうかと本気で悩むほど。ちなみに、「四万六千日」といえば落語の「船徳」である。この時期の寄席でよくかかる。けっきょく、とくに電気製品がやられた様子もなくホッとしたが肝を冷やした。
とはいえ、「一人あたりのキャンドル消費量世界一」を誇る国を愛するカフェゆえ、こういうときの備えは万全である。じっさいには、各テーブルに置こうとしたとたん電気が復帰してしまったのだけれど、せっかくなのでそのままキャンドルサービスでお・も・て・な・し。(画像は当店で常備しているキャンドルホルダーの一部。イーッタラの製品に囲まれて、放射状の光を放っているのは当店のカップ&ソーサーセットをデザインしてくださった梅田弘樹さんの作品「LUMI(雪)」)
12.08.2018
「陸の孤島」からコンニチハ。お盆休みに淡い期待をよせていた自分がバカでした。人いねーじゃねーか!! そして賢明なるご近所さんはといえば、なんてことでしょう、みんなお休みやん!!
傷心のまま、夕刻おもてに出て写真を撮ってみたところ、なんか変に雰囲気のある絵が撮れてしまいました。いやいや、そうじゃなくて、伝えたいのは「危機感」とか「切迫感」なんですけどね。とはいえ、たしかにこのオレンジ色の灯はなかなか悪くない。エットーレ・スコラ監督に『BARに灯ともる頃』という作品があるが、その映画にちょうどこんな「オレンジ色の灯」が印象的な港町のバーが出てくるのだ。
『BARに灯ともる頃』は、イタリアの港町を舞台に、毎度おなじみマストロヤンニ扮する親馬鹿なパパと、離れて暮らす思春期の息子との心の機微を描いた激甘なホームドラマである。こういう、いかにもイタリアって感じの「家族愛」を描かせたらスコラ監督の右に出る者はいないのではないか。
そのドラマのなかに登場する「オレンジ色の灯」のバーは息子の行きつけの店で、常連客とはみな顔見知り、店の主人からは息子のように可愛がられ、ときには店の手伝いをしたりもする。そして、この店で、自分には見せたことのない生き生きとした息子の表情に接したパパ・マストロヤンニは、これまでの「愛情の押し売り」を反省し「子離れ」を誓いバーの扉をそっと閉めるのだった。最後に観たのがもうかれこれ十数年も前なのであやしいところもあるが、夜の港町にそこだけポッと光る「オレンジ色の灯」のバーの役どころはだいたいそんなところだったように思う。
暗く寂しい街の片隅にぽつねんと佇みほんのりオレンジ色の灯をともす店こそは、それゆえ、すべての人をやさしく包み込み、それぞれの人生にそっと寄り添う「理想の店」の姿でもある。ひとの気配の消えたお盆休みの街はずれ、偶然写された「オレンジ色の灯」にふと忘れかけていた「理想」を思い出す。
10.08.2018-11.08.2018
◎10.08.2018
お客様から聞いた話。そのお客様がはたらいているオフィスはなかなか国際的で、同僚にはポルトガル人やインド人がいたり、みな世界各地を飛び回って仕事していたりするらしいのだが、そうした同僚たちが口を揃えて「いまの東京のほうが暑い」と言うのだそうだ。
そんななか、唯一サウジアラビアから帰国したばかりのひとだけは東京のほうがマシと言ったらしい。がぜんサウジアラビアに行ってみたくなるよね。辛いのが好きなひとが、より辛いものを欲する心理か。いよいよ病んできた。
そろそろ、きょうあたりからお盆休みに突入したひとが多そうだ。というわけで、ここで当店の「お盆休みのお知らせ」です。
ーー ないです。(来てね)
お盆休みが関係あるのかないのか知らないが、お客様の動きがまったく読めない1日。開店早々、一気にご来店いただきバタついたかと思えば、その後はパッタリ止まるといった具合。おかげで、わざわざ2時間かけてクルマでお越しいただいた「フィンランド」と「ウマ」というナゾの共通項を持つひさびさのお客様とゆっくりお話しすることができたけれど。
さて、閉店時間を延長した「ナツモイ」も本日で無事終了。期間中、途中下車して、また遠回りして、あるいはわざわざ反対方向の電車にのってご来店いただいたみなさま、どうもありがとうございました!! ラストは、いつもぼくの「細かすぎて伝わらない」ネタの聞き役になってくださるAさんから貴重なサジェスションをいただく。楽しすぎた。
◎11.08.2018
仕込みを手伝ってくれているスタッフも休暇から戻り、本日よりメニューも通常モードに。
ところで、「外郎(ういろう)」といえば名古屋というイメージがあるのだが、郷里の山口の「外郎」も美味しいのでぜひ食べてみて欲しいとスタッフがお土産に買ってきてくれた。なるほど、名古屋のそれとは食感がまるで違う。名古屋のにくらべるとよりツルッとしてなめらか。調べてみたら、原料がそれぞれ「米粉」と「わらび粉」で違うのだった。それで「わらび餅」のような食感だったのか。納得。
朝から怪しげな空模様であったが、14時を回ったあたりから断続的に夕立ちに見舞われる。こんなお天気の前では、ちいさな店なんてひとたまりもないのであった。完全に降り止んでから少し客足が戻るも、万事休す。
09.08.2018
朝、いつもの道でいつもの犬にいつものように吠えられる。平和。
台風もことさらこの辺りではこれといった被害もなく無事通過していったのはよいが、どうやら猛暑はまたぶり返しそうだ。1ヶ月早く夏が来たのだから、秋も1ヶ月早く来たっていいんやでえ。
きょうは、夜、常連さんを中心に駆け込みで何人かご来店くださりありがたいかぎり。おしゃべりしたいお客様が同時に複数いらっしゃるとき、以前の荻窪の店だったら無理やり話に巻き込んでしまうということができたのだが、いまのレイアウトだとそれがなかなかむずかしい。この人とこの人とを引き合せたらおもしろい、というのはつねに頭の中にあったりするのだけれど。
帰り際、ひと回り以上年下の常連さんから「もう若くないんですから、無理しちゃダメですよ」と諭される。ハイ。
それはそうと、なんの脈絡もないが不意に思いついたので書いておく。駅前の通称「ハーモニカ横丁」の一角に、おそらく戦後の闇市のころから続いていると思われる果物屋があるのだが、営んでいる初老のご夫婦のたたずまいが、まったくもって偉大なるサンビスタ・カルトーラとその妻ジカそのものなのである。ブラジル音楽好きはぜひ覗いてみてほしい。ちなみに「ジカ」は、たいてい店お奥の方に腰かけてプカプカ煙草をふかしている。
ところで、ほとんどのひとは知らないと思うのだが、きょう8月9日は「ムーミンの日」だった。作家・画家で、「ムーミン」の生みの親であるトーベ・ヤンソンの誕生日にちなんで、この日を「ムーミンの日」と定めたのだそうである。今年は、フィンランドのアラビア社から24時間限定で記念のムーミンマグカップが発売されるということで話題になっている。
トーベ・ヤンソンのほかにも、おなじ8月9日生まれには黒柳徹子や藤岡みなみ、それに自作PCをデコトラよろしく光らせてしまったフィロソフィーのダンスの「おとはす」こと十束おとはさんらがいる。なぜ「おとはす」だけ「さん」付けにしているのかわからないが。とにかく好きなことを突き詰めるタイプの、ちょっと個性的な女性ばかりである。余談だが、佐藤蛾次郎も8月9日生まれらしい。
そういえば、きょうは、ふつうだったら絶対口にしないであろうようなお客様の口から「フィロソフィーのダンス」という単語が聞けたので、個人的にはもうそれだけで十分「仕事した」感がある。ただ、「あの、ほら『蜂の巣』みたいな名前の……」って、それ「フィロのス(フィロソフィーのダンスの略称)」なんですけどね。この際ちゃんと覚えて下さい。
ところで、ぼくがなぜしょっちゅうフィロソフィーのダンス、フィロソフィーのダンスつぶやいているかというと、人力によるサブリミナル効果を狙ってというのもあるが、それ以上に、彼女たちの歌がほんらい届くべきところに届かず終わってしまってはあまりにもったいない、そう思っているからである。
思えば、ぼくが子供のころにはまだ「国民的ヒット」といえる音楽があった。小学生からお年寄りまで誰もが知っていて、なんなら歌えるくらいのポピュラーな曲。それらは、TVやラジオの歌番組から、お茶の間のステレオセットからひんぱんに流れ、また映画の挿入歌やCMのキャンペーンソングとしてさらに多くの人たちの元へと広がっていった。そしてそういった曲のなかには、男性アイドルの曲もあれば女性アイドルの曲もあり、ニューミュージックやフォークもあれば演歌もあった。ぼくと同世代の「昭和の子供」なら、きっと松田聖子の「赤いスイートピー」もサザンオールスターズの「愛しのエリー」も、それに石川さゆりの「津軽海峡冬景色」もみんなソラで歌えるのではないか。
歌番組がほとんどテレビ欄から消え、お茶の間のステレオセットの代わりにイヤホンやヘッドフォンを通してひとりきりで音楽を楽しむことが当たり前となったいま、必然的に音楽のジャンルは細分化し、すすんで聴くジャンル以外の音楽にはすっかり無頓着になってしまった。ぼく自身、マニアックに、ちいさなサークルの中で楽しむような音楽の聴き方もキライではない。が、おなじくらい、ひとつの曲を世代を超えて共有するような音楽体験の楽しさもやはり捨てがたいと思うのだ。そして、フィロソフィーのダンスこそは、そうした聴かれ方をされてしかるべきグループだと思っている。なので、ふだんこういったジャンルは聴かないし、むしろちょっと苦手とすら思っているような人たちが多い場所ほどついつい大声で叫んでしまうのだ。
とりあえずは、かつての人気番組「ザ・ベストテン」のセットを想像しつつ、頭の中で「今週のスポットライト!」と叫んでから以下の「昭和感」満載の動画をクリックしてみて下さい。
08.08.2018
まずはお知らせから。営業時間を1時間繰り下げる【ナツモイ】ですが、10日(金)まで延長いたします。よって、営業時間は正午より20時(19時30分ラストオーダー)となりますので、ふだんなかなかお立ち寄りいただけないお客様もこの機会にぜひ。残り2日、お待ちしております!!!
さて、台風13号が接近中とのこと。こういう災害の危険が近づいているとき、いかにすればすべてのひとに的確な注意喚起ができるだろうかとぼんやり考える。
おそろしく気の長い男と、反対におそろしく気の短い男との滑稽なやりとりを描いた「長短」という落語があるが、たしかにこの世の中には「長短」の登場人物ほどではないにせよ、おなじ災害を前にしてもほとんど危機感を感じないのんびりしたひともいれば、すぐパニックに陥るようなひともいて的確な注意喚起の難しさを感じずにはいられない。
このことに関していえば、つまるところ、余計なバイアスをかけずに淡々と正しい情報を伝えるほかないのではないか。それに対して、注意喚起のつもりなのかもしれないが、結果的に危機感を煽りすぎて「ピーターと狼」のようになっているのが最近のエンタメ化した天気予報の功罪だと思う。わかりやすいは、ときに雑であることとイコールなのだ。
なお、朝、台風の影響が予想されるため9日(木)のシナモンロールのテイクアウトはお休みさせていただきます。ご了承下さい。