シャーリイ・ジャクスンが描くうすら寒い世界
シャーリイ・ジャクスンのビターな短編集『くじ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を読む。断っておくとこれ、いわゆるミステリじゃないです。ブラックユーモア+サイコ・スリラー+奇妙な味がブレンドされた物語が22編。
表題作となっている『くじ』は、雑誌「ニューヨーカー」に掲載されるやいなや大反響を巻き起こしたとされる作品。
舞台は、どこかアメリカの田舎町。住民は子どもも含め300人ほどで、どうやら彼らの多くはトウモロコシを栽培する農家である。この町の広場では、開拓以来、年1回住人全員参加の「くじ引き大会」が行われてきた。かつては他の町でも行われていたが、最近ではこの「行事」が守られている町もめっきり少なくなった。その日もわいわいと雑談に花を咲かせながら、またいそいそと、町人たちはくじを引くために広場に集まってくる。田舎町のほのぼのとした祭りの情景は、しかし、ハッチンスン夫人が「あたり」を引いたことで一気にカオスへと転じるのだった……。
くじに「あたる」ことがかならずしもラッキーでない(たとえばPTAの面倒くさい役員とか……)という局面は重々承知なはずなのだが、全体にのどかな田舎町の祝祭ムードが溢れているだけに読者が受ける衝撃も大きい。上げておいて落とすがシャーリイ・ジャクスンの「極意」とみた。いったいどんな顔をしてこれを書いていたのだろう、このひとは。
連作ではないのだが、登場人物がみな似通った名前なのも興味深い。もちろん、似通ってはいるが同じ人物ではない。まったくの別人。つまり、落語に登場する「熊さん、八っつぁん」同様、実質的には「匿名」なのであって、彼らの物語はまた、読んでいる私たちの物語でもあるということだ。それゆえ、そこに存在する悪意もまた、だれの心の中にも、もしかしたらあなた自身の心の中にも潜んでいるかもしれない悪意なのであり、つまるところ、シャーリイ.ジャクスンの描く世界のうすら寒さとはまさにその点につきるのではないかと思う。
2016年に出会った音源から
2016年は、ぼくにとっていままでとはまったく違う音楽との出会い方をした一年となった。それは、Amazonの音楽聴き放題サービス「プライムミュージック」を使うようになったことが大きい。
元々、こと音楽にかんするかぎりぼくは〝雑食系〟ではあったのだけれど、興味をもった音源から枝葉を伸ばしてゆくような仕方で少しずつ世界を拡げてゆく聴き方をもっぱらしてきた。それが、プライムミュージックによってより直観的というか、とにかく目についたもの、なにかしら引っかかったものはとりあえず片っ端から聴いてみるという、いってみれば〝ロシアンルーレット〟的聴き方に変わったのである。その結果、いままでだったらおよそ耳にする機会のなかったような音源や、また、かならずしも興味がないわけではないけれどなんとなく後回しにしてきた音源を、さながら腹をすかした子どもがゴハンをかきこむように聴きまくることになった。
そこで、ことし2016年、そんなふうにして出会った音源の中からとりわけ個人的に面白く、また心に残ったものを3つ選んでみた。3つに共通するのは、溢れだす表現のもとではもはや形式は意味をなさない、ということか。
フランク・オーシャン『ブロンド』 Frank Ocean『Blonde』
音楽というよりも、この肌合いはむしろ「文学」に近い。この『Blonde』というアルバムは、フランク・オーシャンという一作家の手になる〝私小説〟と言ってよいのではないだろうか。サウンドひとつとっても、すでにいわゆる「R&B」の範疇を大きく逸脱している。そして、そんな「形式」なんてもはやフランク・オーシャンにとってはどうでもいいことなのだろう。まるで彼のプライヴェートを覗き見しているかのような生々しさに、初めて耳にしたとき思わずたじろいだ。
Frank Ocean - 'Nikes' from DoBeDo Productions on Vimeo
リリカルスクール『RUN and RUN』 Lyrical School『RUN and RUN』
近頃アーティスト指向のアイドル周りでよく耳にする「彼女たちはアイドルじゃないんだ、アーティストなんだ」みたいなエクスキューズがどうも苦手だ。そんななか、ヒップホップを取り入れたアイドルである彼女たちは、ここで女の子の心情をラップで表現する。それ以上でも以下でもない。そして、むしろそこがいい。なにか特別なことをやっているような感じ、変に尖ったところがまったくないのだ。とはいえ、それで成立するのはもちろんフツーに楽曲がいいからではあるのだけれど。中井貴一のCMから30年の時を経て、カワイイとカッコイイが無理なく融合した『RUN and RUN』収録の「S.T.A.G.E2016」は必聴。
サマーファンデーション/lyrical school【Sync with fireworks MV】#SummerFoundation
魚返明未トリオ『STEEP SLOPE』
東京藝術大学作曲科に在学中の学生にして、ジャズピアニストとしても注目をあつめる魚返明未(おがえり・あみ)のデビューミニアルバム。これはAmazon経由ではなく、常連のT・Y嬢から教えていただいた。収録された全5曲がすべてオリジナル。ピアノトリオというもっともオーソドックスでジャズらしい編成でありながら、精緻なアンサンブルや実験的な響きがそこかしこに仕込まれた楽曲にはラヴェルの室内楽曲のような知的興奮がある。ひょっとしたらこのひと、かならずしも「ジャズ」という形式には固執していないのではないか。コンポーザーとしての今後に期待がふくらむ。
12/2(金)お休みします&イベント出店のお知らせ
12月2日(金)は、イベントに出店のため吉祥寺のお店はお休みさせていただきます。
以下、出店するイベントについてご紹介いたします。
柳下美恵の「聖なる夜の上映会」vol.10
サイレント映画ピアニストの第一人者として活躍する柳下美恵さんが毎年クリスマスの時期に開催しているサイレント映画上映会の第10回目です。
★上映作品について
今回は、喜劇王バスター・キートンの代表作『恋愛三代記』(1923)が上映されます(63分長尺版)。キートンが、石器時代=ローマ時代=現代のそれぞれの時代で恋して、恋して、恋しまくるラブコメディーの傑作です。参考/淀川長治による解説→◎
SAMPLE キートンの『恋愛三代記』より人間ピタゴラ装置!?
"Buster Keaton" leaps from building to building "Three Ages" 1923
★柳下美恵さんについて
映画の上映にあたっては、ピアニスト柳下美恵さんの生演奏による伴奏がつきます。じつは、実際に体験するまでは、場面に合わせていかにもそれっぽい音楽が即興でつけられるだけだとばかり思っていました。ところが、実際には非常に緻密に構成されたオリジナルの映画音楽といった印象で、まるで最初から譜面が残されていたかのように自然に映像と一体化していることに驚かされます。むしろ、音楽の力によって無声映画に新しい命が吹き込まれたような気さえするのですが、こればかりは実際に体験していただかないと伝わらないかもしれません。
★蚤の市について
映画の上映は18時30分からとなりますが、16時の開場から開演までの2時間半は、会場内にさまざまなショップが出店する「蚤の市」をお楽しみいただけます。
古書ドリスさん、ひるねこbooksさんその他のみなさんと一緒に「モイ」も初参加させていただきます。
メニューは、あたたかいコーヒー、あたたかいココア、そしてクリスマスらしいスパイスクッキーなど販売します。お時間に余裕のある方は少し早めにご来場いただくとよりお楽しみいただけます。
★会場について
会場となる日本基督教団「本郷中央教会」(地下鉄丸ノ内線、地下鉄大江戸線「本郷三丁目」駅5番出口より徒歩5分)は明治23(1890)年に設立、震災後、ヴォーリズ事務所出身のJ・H・ヴォーゲルとアメリカ帰りの川崎忍の共同設計により昭和4(1929)年に竣工した歴史的建造物です。夏目漱石の小説『三四郎』にもこの教会が登場するそうです。なかなか気軽には立ち入ることのできない空間ですので、早めに来場して建物の雰囲気もぜひ堪能してください。
★チケット
チケットは2,000円で、当日券のみのお取り扱いとのことです(定員150名)。当日、急に時間ができた、思ったより早く仕事を上がれたという方もぜひ駆けつけてください。
イベントの詳細は、こちら「柳下美恵さんの情報ページ」→◎ もご覧下さい。
おとな視力〜これは「老い」ではない
「おとな視力」について書く。「老眼」とも言う。早いひとは三十代で始まるというのだから、せめて「おとな」くらいにしておく気遣いはできなかったのか、命名者よ。
じつはここ数年、ぼくもすっかり目がアダルトになってしまい苦労している。近いところの焦点が合いにくく、ある程度離さないと読み書きにも不自由する。たとえば、カウンターで申込書に記入するといった行為がとてつもなく億劫だ。自分の書く字がぼやけてよく見えないので勘をたよりに書く。メガネをずり下げて裸眼で見ればよいのだが、その姿を想像するとさすがにまだ抵抗がある。結果、達筆すぎる書家のような申込書が残されるのだ。恥ずかしい。
スマホも見づらい。あるとき、イラストレーターの福田利之さんからスマホ画面の文字を大きくするといいと教えられ早速やってみた。たしかにだいぶ見やすくはなったのだが、1行5文字くらいのひたすらタテ長のメールがどんなに読みづらいか想像するのは、ジョン・レノンに言われるまでもなく明らかだ。見やすいと読みやすいはちがう。「おとな」ゆえの気づきである。
また、文庫本の活字の大きさなど、若いときにはたいして気にもとめなかったことが「おとな視力」にとっては重要な問題となる。特に、古本で手に入れた活版印刷の時代の岩波文庫や新潮文庫などはまったく手に負えない。あまりにも活字が小さいと、本を開いただけですっかり戦意喪失してしまう。
以前から気になっていたことに、なぜ年寄りはスーパーの通路の真ん中に立つのかというのがある。効率を優先するスーパーで、陳列棚どうしの間隔は狭い。たいがいはようやく人がすれちがえる程度の幅しかない。にもかかわらず、そんな狭い通路をふさぐようにして立ち商品に見入っているお年寄りの姿をたびたび目にする。以前なら、そのつど、年をとるとあんなふうに無神経になってしまうのだななどとイラッとしながら考えるのがつねだったのだが、自分が「おとな視力」になってみてはじめて気づいた。見えない、のである。陳列棚に近寄ってしまうと、正札の値段や説明書きがぼやけて読みづらい。しかたなく読みやすいところまで離れると、そこは通路の真ん中だったというわけ。だから、そんなお年寄りの姿をみかけてもいまのぼくはもう苛立つようなことはない。「さぁさぁ、おじいさん、どうぞ心ゆくまでご覧なさい」。もしかしたら、そうかんがえるぼくの口元はうっすら微笑すらたたえているかもしれない。
いかにも「おとな」らしく、こんなふうに適度な距離をとって他者をみることができるからこその「おとな視力」。これは「老い」ではない。
林さんが選曲したバーで聴きたい音楽
ポストをのぞいたら、bar bossaの林さんが選曲した、最近出たばかりのCDが投函されているのをみつけた。おなじく最近出たばかりの林さんの本『バーのマスターは、「おかわり」をすすめない』(DU BOOKS)の〝サントラ〟とのことである。林さん、いつもお気遣いありがとうございます。
ところで、前々から、こと音楽の趣味にかんするかぎり、ぼくと林さんの好みとではずいぶん隔たりがあるように思ってきた。たとえて言えば、林さんはぼくよりも大さじ一杯分くらいロマンティックかつウェットである。あるいは、ぼくにとっての〝快適〟より、林さんのそれは平均して2℃から3℃くらい高い。
今回、林さんが選曲したCD『Happiness Played in the Bar』(ユニバーサルミュージック)の曲目を眺めてみると、音楽について話しをするとき林さんの口からたびたび挙がるアルバムやアーティストがずらりと並んでいる。ブロッサム・ディアリーしかり、ヴィンス・ガラルディのスヌーピーものしかり、バカラックしかり、ビル・エヴァンスの『フロム・レフト・トゥ・ライト』しかり……。予想に反して収録されていなかったのは、シンガーズ・アンリミテッド。もしかしたらレコード会社の絡みだろうか。
そんななか、やはりこれは紛れもなく林さんの選曲だなと思わせるのはクラウス・オガーマンが編曲した楽曲がいくつか収められていることだ。なぜといえば、やっぱり林さんといえばオガーマンだから。そしてじつは、何を隠そう、ぼくはオガーマンのアレンジがあまり好きではない。
とはいえ、ポール・デズモンドやカル・ジェイダーはぼくも大好きだし、とりわけゲイリー・マクファーランドが編曲した女流ジャズオルガニスト、シャーリー・スコットの曲が収録されているのもうれしい。全体の流れからすると〝破調〟ともいえる、「へぇ~ここでこんな選曲するんだ」と思わせるニック・デカロやビーチボーイズも個人的に「まんまとしてやられた」感じだ。思っているほどには、林さんの嗜好とぼくのそれとの間に開きはないのかもしれない。これは、うれしい発見。
はじめに書いたとおり、ぼくはこのCDを林さんから頂戴したのだが、いくら日頃から世話になっているとはいえ義理を感じて宣伝するというのではぼく自身の信条に反するし、おそらく林さんだってそんなことは望んでいないにちがいない。だから、聴いてもしピンとこなかったなら、とりあえずメールで直接感謝の意を伝えておしまいにしようと考えていた。ところが、意外にも(?)ここに選ばれている曲やアーティストはぼく自身選びそうなものばかりである上、そこに林さんらしい〝スパイス〟が振りかけられていて新鮮な驚きがあったのでこうしていまここで紹介させていただいている。
ところで、このbar bossaではおなじみの音たちが並んだCDを聴いてまず思ったことは、林さんにとって「バー」とは好きな(かならずしも異性というわけではなく、気のおけない同性もふくむ)誰かといっしょに過ごす場所だということである。ひとりグラスを傾けながら耳をすますよりは、ここに聴かれる音楽は、会話の背景に適度な音量で流れ、ときには途切れた会話をそっと繋いでくれるようなものばかりと思うからだ。
いま、ぼくはこのCDをひとりで、じぶんの部屋で聴いているのだが、なんだかとても人恋しくなってきてしまった。思わずバーにかけこみたい心境だ、下戸なのに。こうしてまた、今夜もbar bossaはにぎわっているにちがいない。
ひとりの時間をためらわないで
入ろうか、入るのやめようか、店先で思案している姿をよくみかける。はじめての店の敷居をまたぐのにはなかなかな勇気を必要とする。ひとりでは店に入ることができない。あるいは、なにをしていいか判らない、手持ち無沙汰、そんな声もよく耳にする。他人とひとつの空間をシェアすることが苦手というひともいるだろう。
十五年ほど続けてきて思うことは、ほとんどの場合、そしてたいがいのひとは、この世界からカフェが消えてもさほど困らないということだ。じっさい、ネットでかんたんにおいしいコーヒー豆や紅茶をかんたんに手に入れることができるいま、自宅でお気に入りのインテリアに囲まれて楽しむお茶のひとときはじゅうぶん快適にちがいない。ただ、ひとつ言えるのは、自分の家は日々の暮らしの中心であって、そこにいるかぎりひとは日常の仕事や人間関係と必ずつねにつながっているということである。
仕事や人間関係、日々の暮らしにつきまとう些事から自分を切り離すために、ひとはちょっとした〝舞台装置〟を必要とする。たとえば〝旅〟がそうだろう。旅とは、日々の暮らしから物理的に距離をとることで自分じしんを日常から切り離すための道具立てである。いっぽう、わざわざ旅をしなくても、自分なりの〝舞台装置〟をつかって同じような効果をうまく生み出している人たちもいる。
これは、映画『かもめ食堂』でアソシエイト・プロデューサーを務めた森下圭子さんから伺ったエピソードなのだが、日本とフィンランド、それぞれからスタッフが参加した『かもめ食堂』の野外ロケのとき、ランチタイムになると日本人スタッフはみな1箇所に集まり輪になって食事をとる。ところが、フィンランド人のスタッフはというと、めいめい自分の食事を手にあちこち散らばってひとりで黙々と食事をしていたという。聞いたとき、フィンランド人=寡黙というパブリックイメージとあまりにも合致しすぎて爆笑せずにはいられなかったのだが、それはかならずしも彼らの寡黙さに起因しているわけでもないし、ましてや協調性がないとか、スタッフどうし仲が悪かったというわけでもないだろう。ただ、他人といっしょに仕事をするうえで、チームワーク同様、彼らにはこうした〝ひとりの時間〟がたいせつであり、映画のロケ現場にあってはそれが〝ランチタイム〟だったということだ。
ところで、東日本大震災の後しばらく、ひとりで来店されるお客様が増えたことがあった。計画停電や続く余震のなかひとりで家にいるのが心細い、そんなふうに話してくれるお客様もいた。家でテレビを観ても、職場にいても、友達としゃべっていてもすべてが震災とそれにともなう原発事故への不安や恐怖につながってしまった当時の日常生活を思い返すとき、カフェという、日常から適度に隔離された空間で、あまりよく知らないひとが淹れてくれるコーヒーを飲む時間だけが、唯一そうした日常から離れることのできるおだやかな時間だったのではないか。なるほど、心がざわざわしたりささくれだったりするときほど、ひとはカフェを欲する。そんな気分を驚くほどに鎮めてくれる〝ひとりの時間〟を、わざわざカフェに出かけることは担保するからだ(*個人の感想であり、効果・効能を示すものではありません!?)。
ひとは他人と、そしてそれがもたらす有害無害の情報とまったく関わらずに生きてゆくことはできない。だからこそ、ひとには意図的に日常から自分を切り離す〝ひとりの時間〟が必要だ。まあ、「宣伝」と思って聞いておいて欲しい。どうか、〝ひとりの時間〟をもつことをためらわないで。