moiのブログ 日々のカフェ season3

東京・吉祥寺の北欧カフェ「moi」の店主によるブログです。基本情報は【about】をご覧ください。

おとな視力〜これは「老い」ではない

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 「おとな視力」について書く。「老眼」とも言う。早いひとは三十代で始まるというのだから、せめて「おとな」くらいにしておく気遣いはできなかったのか、命名者よ。

 じつはここ数年、ぼくもすっかり目がアダルトになってしまい苦労している。近いところの焦点が合いにくく、ある程度離さないと読み書きにも不自由する。たとえば、カウンターで申込書に記入するといった行為がとてつもなく億劫だ。自分の書く字がぼやけてよく見えないので勘をたよりに書く。メガネをずり下げて裸眼で見ればよいのだが、その姿を想像するとさすがにまだ抵抗がある。結果、達筆すぎる書家のような申込書が残されるのだ。恥ずかしい。

 スマホも見づらい。あるとき、イラストレーターの福田利之さんからスマホ画面の文字を大きくするといいと教えられ早速やってみた。たしかにだいぶ見やすくはなったのだが、1行5文字くらいのひたすらタテ長のメールがどんなに読みづらいか想像するのは、ジョン・レノンに言われるまでもなく明らかだ。見やすいと読みやすいはちがう。「おとな」ゆえの気づきである。

 また、文庫本の活字の大きさなど、若いときにはたいして気にもとめなかったことが「おとな視力」にとっては重要な問題となる。特に、古本で手に入れた活版印刷の時代の岩波文庫新潮文庫などはまったく手に負えない。あまりにも活字が小さいと、本を開いただけですっかり戦意喪失してしまう。

 以前から気になっていたことに、なぜ年寄りはスーパーの通路の真ん中に立つのかというのがある。効率を優先するスーパーで、陳列棚どうしの間隔は狭い。たいがいはようやく人がすれちがえる程度の幅しかない。にもかかわらず、そんな狭い通路をふさぐようにして立ち商品に見入っているお年寄りの姿をたびたび目にする。以前なら、そのつど、年をとるとあんなふうに無神経になってしまうのだななどとイラッとしながら考えるのがつねだったのだが、自分が「おとな視力」になってみてはじめて気づいた。見えない、のである。陳列棚に近寄ってしまうと、正札の値段や説明書きがぼやけて読みづらい。しかたなく読みやすいところまで離れると、そこは通路の真ん中だったというわけ。だから、そんなお年寄りの姿をみかけてもいまのぼくはもう苛立つようなことはない。「さぁさぁ、おじいさん、どうぞ心ゆくまでご覧なさい」。もしかしたら、そうかんがえるぼくの口元はうっすら微笑すらたたえているかもしれない。

 いかにも「おとな」らしく、こんなふうに適度な距離をとって他者をみることができるからこその「おとな視力」。これは「老い」ではない。