15.07.2018
きっと信じてはくれまいだろうが、これは昨晩ほんとうにあった出来事なのだ。いつものように片づけをすませ、店の外に一歩出たとたん、それは起こった。どこからともなく何十人、いやおそらく百人以上もの赤や緑の衣装を身につけた小人たちがそれはものすごい勢いで駆け寄ってきて、あれよあれよという間にぼくの全身を熱い蒸しタオルでぐるぐると、有無を言わせず簀(す)巻きにしてしまったのだ。ぼくはただ唖然としてへたへたと道に座り込み、ダラダラと汗を流しているほかなかった……
以上、昨晩の尋常ではない蒸し暑さをメルヘンチックに表現してみました。
それはさておき、NHK-BSでドイツの哲学者マルクス・ガブリエルをとりあげたドキュメンタリーをやっていたがなかなか面白かった。ミナミの路上でサラリーマンに「幸福」について論じたり、新橋の屋台でOLの恋愛相談に答えるマルクス・ガブリエルの姿はさながらロック・アイコンのようだが、本人はそんな扱われ方も案外楽しんでいるようみえる。
世界のありようを、まるでルービックキューブの解き方でも説明するかのように語るマルクス・ガブリエルの姿は、出口が見えない、解決の糸口が見つからない、そんな混迷の時代に生きる者の目には「希望」の体現者のように映る。番組の中で彼は、とても困難にはちがいないが、だが自分は対話を通してヒトラーにユダヤ人の虐殺を思いとどまらせることができるだろうと語っていた。いま、多くの人たちは「希望」に飢えている。マルクス・ガブリエルの平明さと力強さは、そうした人たちにとってきっと「甘いお菓子」のように魅力的であるにちがいない。
番組では、彼の思想と西田哲学の近しさについても触れられていたが、「人間」という概念の考察にあたってナチスドイツの反省をひとつの立脚点とするマルクス・ガブリエルは、西田哲学が結果的に太平洋戦争に加担するような形になったことについてははたして知っているだろうか? もし知っていたとしたら一体どう語るだろうか?
なにも哲学者のテレビを観たからというわけでもないが、ここのところ人間の生と死について漠然と意識しつつ過ごす日々のなかで、人間の「幸福」とはどのようなものなのかをぼんやり考えている。
人間にとって「幸福」とは、選択肢があり、しかもそれをみずからの意志によって選び取ることのうちにある。
選び取った先にある結果は、この際関係ない。結果は「運」である。「幸福」と「幸運」とは切り離して考えるべきだ。「幸福」を「幸運」の量ではかれば、ぼくらはより幸福から遠ざかる。結果がどうであれ、まず選択肢があり、みずからの意志によってそれを選んだ時点でひとまずぼくらは「幸福」だといえる。
たとえば、国ごとの「幸福度ランキング」のようなものがある。必要最低限の選択肢がつねに用意され、それをみずからの意志によって選び取ることのできる社会に生きているひとで、しかもそこに最低限の「幸福」を見出すひとが暮らす社会は、当然「幸福度」が高くなる。たとえば北欧の国々のように。しかし、「幸運」な結果によって「幸福」の度合いをはかろうとするひとの暮らす社会では、反対に、その「幸福度」は低くなるだろう。日本はいまそれにあたるかもしれない。
ぼくらがまず実現すべきなのは、その意味でつねにだれにとっても等しく選択肢が用意され、選び取ることのできる社会であり、そこに「幸福」の値打ちを置く社会である。結果はさておき、「選び取った」ことにまず幸福を見出すべきだと思うのだ。