moiのブログ 日々のカフェ season3

東京・吉祥寺の北欧カフェ「moi」の店主によるブログです。基本情報は【about】をご覧ください。

11.07.2018

 笑いのツボが似ている。これは、友人にせよ恋人や夫婦にせよ、長く一緒に過ごすうえで食べ物や洋服の趣味以上にじつは大切なのではないか。

 ときどき、ぼくが落語が好きで寄席に通ったりしていることを知るひとから、オススメの噺や落語家を尋ねられることがある。おそらく相手は軽い気持ちで訊いているのだと思うが、訊かれるこちらからすればこれはなかなかの難問で、つい毎回口ごもってしまいなんだかもったいぶっているような感じになってきまりが悪い。

 というのも、相手の笑いのツボが自分と似ていればまったく問題ないのだが、もし違っていた場合「なあんだ、面白いというから聴いてみたのにぜんぜん笑えないじゃないか」などと思われてしまうのが怖いからなのである。たとえば、ぼくはあまり新作落語が好きではないのだが(まったく聴かないというわけではない)、いま面白いと評判の若手落語家の新作をほとんどクスリともせず聴き通したことがある。これは、この落語家の新作がつまらないというわけでなく、自分の笑いのツボとことごとく違っていたからにちがいない。実際、周囲には笑っているひとも多かったのだ(一緒に行った知り合いは笑っていなかったが)。

 それに、落語をよく聴くひとなら知っているように、落語の中にはたとえば人情噺や怪談噺、あるいは元々は講談のネタであったものを落語に移し替えた噺など、笑わせることに重きを置いていないネタもたくさんある。また、同じ噺でも演じ手によってまったく印象が異なるといったことも少なからずあったりする。なので、これから落語を聴いてみようというひとが面白い落語と出会うための近道は、まず自分と笑いのツボが似ている人で、しかも落語が好きという人をみつけるところから始めるのがいい。

 とはいえ、なかなかそううまくそんな人と出会えるものだろうか? その点、ぼくの場合、落語を聴きはじめた当初、日ごろからこの人は楽しいなあと思っていた人で、しかも落語にもくわしいという人が周囲に2、3人いたおかげですんなり落語の世界に分け入ってゆくことができた。

 たとえば、そんな「水先案内人」のひとりにコバヤシさんがいる。まだ、ぼくがほとんど落語家の名前さえまともに知らなかったころ、彼女がおすすめしてくれた何人かの噺家は例外なく面白く感じたのだが、これは、コバヤシさんとぼくの笑いのツボがどこか似ているということがまずあったからだろう。

 コバヤシさんはこうも言う。「寄席を一歩出たとたん、なんのネタをやったか思い出せないくらいが丁度いい」。けだし名言である。落語は寄席という小さな宇宙の中でのみ通用する〝ファンタジー〟なのだから、寄席の中だけで完結するくらいの「程よさ」こそが肝心だ。

 だいたい、ぼくは落語に余韻を求めていない。それどころか、余韻を残さないことにこそ、芝居や映画と決定的にちがう落語の美学があるとさえかんがえている。いちど寄席の外に出たならば、あとは「ああ、楽しかった」という気分だけがフワッと残ればそれで十分だ。

    そういうわけだから、ぼくの好きな落語家に共通するのは、スーッときれいに余韻を切ることの上手さであり、またそこから生まれる「軽さ」である。

 たとえば春風亭一朝師匠、瀧川鯉昇師匠、柳亭市馬師匠、桃月庵白酒師匠、三遊亭兼好師匠、柳家小せん師匠、古今亭菊志ん師匠、三遊亭萬橘師匠、雷門小助六師匠、それに三笑亭夢丸師匠といった人たちがいますぐ寄席で聴ける、ぼくの好みにかなった落語家である。思い浮かぶままに。ご参考まで。