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moiのブログ 日々のカフェ season3

東京・吉祥寺の北欧カフェ「moi」の店主によるブログです。基本情報は【about】をご覧ください。

ぐうの音も出ない/気のきいたことを言う/浮世離れ

◆ぐうの音も出ない

ワタリウムでリナ・ボ・バルディのすごくいい展示を楽しみ、さてこれからどうしようと考えたら、ひさしぶりに浅草へ出るというアイデアが閃いた。アンジェラスでコーヒーを飲み、弁天でソバを食うのだ。
昼はもうとっくに過ぎているが、ひとまず混雑を避けてアンジェラスで一服。と、すぐ近くで某二ツ目噺家がシリアスな内容の話をしていることに気づく。聞かなかったことにしようと心の中では思いつつ、耳はしっかり聞いてしまう。もう読書どころではない。後になって調べたところ、すでにひっそり公表されているようで安堵する。益々の御活躍を。
たまに浅草まで来たのだから、ここはやはり観音様にもお詣りするべきだろう。仲見世通りが賑わっているのはいつものことだが、なにか様子がおかしい。ふと見ると、目の前をちゃちな日本刀を背負ったインド人が歩いている。苦笑いしながら横を見る。セーラー服にランドセルを背負った女だ。メロンソーダみたいな色の髪の毛をした白人のお姉さんである。後ろからは中国語らしき言葉が聞こえてくるが、つぎは何が出てくるかわからないのでもう振り向かない。
お詣りを済ませ、ふだんはまずやらないおみくじなどなんとなくやってみたところ、見事に「凶」を引き当てる。願望、病気、失物、待ち人、新築・引っ越し、結婚・旅行・付き合い、すべてにおいてこれでもかというくらい最悪なのだが、説明を読むとその原因は「未熟」にあると書かれている。ぐうの音も出ないとはまさにこのことである。いま、うまく回っていないと思われる事柄がたくさんあって、もちろんそのなかには自分の力ではなんともしがたいことも含まれてはいるのだが、たいがいは自分の「未熟さ」に由来していると思われることばかりだからである。その通りです。参りました。というわけで、自戒の意味で持ち帰ることにし財布にしまう。
その後、観音裏の弁天でおかめそば。美味だったので、吉。

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◆気のきいたことを言う
いま、日本には「気のきいたことを言いたい」人たちが溢れている。隙あらば気のきいたことを言おうと、この人らは虎視眈々とその機会を窺っている。「気のきいたことを言いたい」病の温床は、もちろんSNSである。
いっぽう、やはりすくなからず存在しているのが、「気のきいたことを聞きたい」人たちである。彼らは、テレビのワイドショーに登場するコメンテーターたちをさながら幕の内弁当のおかずでも吟味するかのようにチェックしつつ、「おい! 少しは気のきいたことでも言ってみろ!」と心の中で威丈高にヤジを飛ばす。いちど彼ら視聴者から「つまらない」という烙印を押されたら最期、コメンテーターは退場させられ二度と出番はやってこない。ワイドショーのコメンテーターとは、つまるところ「視聴者」という見えないお客様を喜ばす「接客業」にほかならない。
ところでクリスタルK、ではなくてショーンKである。我が家にはテレビがないのでどこかでなんとなく目にした記憶があるに過ぎないのだが、このひと、おそらく「気のきいたことを言いたい」人にちがいない。そして今回の経歴詐称騒動にかんしていえば、ネット界隈であまり批判的な声が聞かれないのも当然だろう。「ショーンK」というキャラじたい、「ショーンK」こと川上伸一郎クンと「気のきいたことを聞きたい」人びととによるある意味「共作」なのだから。むしろ、コメンテーターが一夜にしてコメンテーターの標的に一変するという「メビウスの環」的なおもしろさすらある。これにより、「ショーンK」というブランドのCS(顧客満足度ってふつうに言えんのか、おい)は一層向上したとも言える。おそらく、来月には「自伝」が幻冬舎あたりから出版され話題になるだろうし、再来週には別の人格になりきって週末をエンジョイするプチ「ショーンKな人たち」が「SPA !」あたりで特集されるはずだし、大川隆法による「霊言」はそろそろ新聞に広告が載るころかもしれない。「ショーンK」というビジネスの成長戦略もいよいよここからが本番、ネクストステージにさしかかったということだろう。まぁ、それはともかく、ヒゲ濃いよね、このひと。

 

◆浮世離れ

季節は巡り、また桜が咲いた。この時期になるときまって思い出されるのが松尾芭蕉の句である。

 さまざまの事おもひ出す桜かな

年ごとに多少のズレはあるとはいえ、桜は、ある決まった時期になると一気に開花し、そして一気に散る。だらだら続かず、花の盛りはわずか10日間程度とごく短いのだが、そこがいい。ほかの多くの花の開花の時期を「線」とするならば、桜のそれは「点」である。それゆえ、もしこの世に「暦」がなかったとしても、ぼくらはその開花をもって季節の替わり目を実感することができる。それにくらべたら、ひとが「節目」と考えがちな「お正月」や「誕生日」は「暦」あってのもの、それなしには知りようもないのである。日本の風土に生まれ育ったひとが、古来から「桜」の開花をひとつの「節目」と考えてきたのは、だから当然といえば当然なのである。

ここ数年、桜のたよりをきいて思い出すのは平成23年の春、あの東日本大震災があった春にみた桜のことである。いつもより心なしか澄み切った青い空を背景に、それはまるでなにも知らないかのように咲き誇っていた。目に見えない放射性物質に対する恐怖。この先日本は、そして自分の生活はどうなってゆくのだろう? そんな漠然とした不安を抱えながら見上げるこちらの気持ちなど一切おかまいなく、桜の花々はいつものように美しかった。そしてそれが、なんだかずいぶんと浮世離れしてみえたのだった。