moiのブログ 日々のカフェ season3

東京・吉祥寺の北欧カフェ「moi」の店主によるブログです。基本情報は【about】をご覧ください。

07.08.2018

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 行くか行くまいか迷っていたところ、ありがたいことに招待券を頂いたので、東京都美術館ではじまったばかりの「藤田嗣治展」をさっそく観てきた。以下、おぼえがき。

 

ーーFoujitaのつくりかた

 藤田嗣治といえば、思いつくのはあの「乳白色」。今回の展覧会では、その乳白色に到達する以前の作品も多々出品されているので、そうした作品を時系列にながめてゆくことであの「乳白色」への道を辿ることができそうだ。とりわけ興味深かったのは、白と薄墨色で描かれたパリの冬の情景。そして、モディリアーニからのあからさまな影響。それらがシチューのように藤田の中でコトコト煮込まれることで、あのパリを魅了した乳白色の世界が誕生したのだ。1918年。

 

ーーセルフ・プロデュース感覚

 なにより藤田は自身のセルフ・プロデュースにたいへん長けたひとである。意識的に、パリでは「東洋人」としてふるまい、それに対して日本では「西洋人」のようにふるまうといった調子。サインひとつとっても、すでに渡仏前から「Foujita」とフランス語表記であるのに、渡仏後になるとさらに「嗣治」という漢字が添えられる。

 あと、これはまったく本人の感知するところではないにせよ、藤田が無類のネコ好きでネコをモチーフにたくさんの作品を遺しているという点も、ある意味ここ最近の日本人の嗜好をバッチリ押さえているといえ、やることなすことが憎らしいほど時代の流れをつかまえるという藤田の天賦の才を感じさせる。

 

ーー自分の作品を発見するナゾの能力

 展示されている絵のなかに、「数十年後、たまたまパリの古道具屋で本人がみつけ買い戻した」作品、さらに「南米を旅行中、たまたま本人がみつけて買い戻した」という作品があった。藤田、自分の作品をたまたま見つけがち。

 

ーーブラジルのフジタ

 今回の回顧展では、30年代初頭フランスを離れ日本に帰国する途中1年ほど滞在したブラジルで描かれた作品も多数展示されていた。いまも銀座にある教文館書店のビルには、かつてサンパウロ州政府が運営する「ブラジル珈琲陳列所」というカフェがあり、そこに藤田が手がけたブラジルのコーヒー園を描いた壁画があったことは知っていたが、あらためてそれが濃密なブラジル生活の賜物であったことがよくわかった。

 

ーーフジタと戦争画

 数年前、東京近代美術館で藤田嗣治が描いた戦争画の全作品が展示されたときにも観て、思ったことだが、戦意高揚というよりは「泰西名画」にしかみえない。

 

ーー枯れることをしらない晩年のフジタ

 70歳を前にして、藤田嗣治はフランスに帰化し「フランス人」になった。さらに、その後カトリックの洗礼を受けて「レオナール」と名乗るようになる。以後、パリ郊外のアトリエでフジタが熱中したのはいわゆる「宗教画」であった。今回、こうした宗教画をまとめて観ることができたのも貴重な体験だった。好きか嫌いかと言われればあまり好きではないのだが、70代の老人が描いたとは思えない細密な、体力と忍耐とを要するような作品ばかりで驚かされた。亡くなるまでエネルギーの塊のようなひとだったのだろう。したたかで豪胆という、ぼくの中の「フジタ像」がより補強された感じだ。なかでも異彩を放っていたのは、黒人の聖母像。モデルは、マルセル・カミュ監督の映画『黒いオルフェ』(1959年)でヒロインを演じたマルペッサ・ドーンがモデルとされる。神秘的な作品。

 

 それにしても、自分がいいと思った作品にかぎって展覧会の物販コーナーで売られているポストカードになっていないのはどういうわけか。5、6点あたまの中で思い描いて物販コーナーに向かうのだが、そのうちの1点もないといったことはザラである。今回はどうだったか。いいと思った作品の、横に並んでいた作品がポストカードになっていた。前後賞。

05.08.2018-06.08.2018

◎05.08.2018

 帰り道、ご近所の飲食店のオーナーさんとちょっと立ち話。「31年商売をやってきて、ここまでお客さんの来ない夏ははじめて」と。駅直結や駅近のお店はともかく、5分以上歩くような飲食店はみなこの夏の炎暑に疲弊しきっている。もしお気に入りのお店があれば頑張って足を運んであげてほしいし、いつか行こうと思っているお店があるならいま行ってあげてほしいと思う。

 先週に続いて、今週も急きょイベントを開催。「あまりに暑すぎるので冷たいものを飲みながら北欧の涼しげな映像を観てただだらだらとするだけの会」。

 このあいだの休日に突然思いつき、告知期間はわずか5日足らずだったにもかかわらず前回同様たくさんご参加いただきありがとうございました。北欧リピーターはもちろん、行ってきたばかりのひと、近々行く予定のあるひと、最近北欧に興味をもったひとなど今回もいい感じの混ざりかた。リクエスト方式の前回とちがい、今回はぼくがぜひ観てもらいたい映像をセレクトしてみたのだけれど楽しんでもらえただろうか。しかし、こういうまったく起承転結のないイベントが許されるのもこの猛暑ゆえという気がするな。

 ところで、東京タワーや東京駅などのライトアップで知られる世界的照明デザイナー石井幹子は、二十代のころ一年ほどフィンランドで暮らした経験をもつ。彼女の師匠で、フィンランドを代表する照明デザイナーのリーサ・ヨハンソン・パッペ女史は、よく彼女にこう言ったそうだ。「トワイライトを大切にしましょう」

 夕暮れ時や夜明け前、人工の電気の光をつけてしまうかわりに、あえてゆっくりとした光の移ろいに身を委ねることでじぶんの内なる「自然」を呼び起そうという話。「薄暮」を愛するという感覚は、フィンランド人を理解するうえでも重要なことのように思われる。

 ヴァイオリニストのペッカ・クーシストが、フィンランドの自宅からフォークミュージックを紹介するこのビデオレターでも薄暮の時間がえらばれている。いい感じに夏からはじまり、最終的には外は真っ暗闇、声もヒソヒソ声になってゆくというフィンランド人らしいユーモアが全開。


Finnish Folk Music - Pekka Kuusisto Home Video - September 2017 (Philharmonia Orchestra)

 

◎06.08.2018

 1週間の疲れと暑さとで、店にたどりついたときには全身がだるくて仕込みもモタモタ、きょう1日もつだろうかと心配なくらいだったのに、店をあけたらなんかいつものペースに戻っていた。しかも、東京の周辺で夕立があったせいか帰るころにはすっかり涼しい風が吹いていてスキップで駅まで行った。いや、しないけど。まあ、それくらいの気分ではあった。その勢いで、つい調子にのり、先日いただいたフィンランドのりんご酒でめずらしく晩酌。そのまま寝落ち。しあわせ。

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03.08.2018-04.09.2018

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◎03.08.2018

 フィンランド語に「ロウリュ(Lo:yly)」という単語がある。フィンランド語は知らなくても、サウナ好きならあるいは耳にしたことがあるかもしれない。

 フィンランドのサウナでは、熱した石に水をかけ強制的に猛烈な水蒸気を起こすのだが、これを「ロウリュ」と呼ぶ。そしてこの高温の水蒸気を浴びながら、「ヴィヒタ」という若葉のついた白樺の枝を束にしたもので全身をはたき血行を促すのである。

 さて、金曜日の夕方、わずか30分ほどとはいえひさしぶりに通り雨が降った。ところが、この日のこのあたりの最高気温は37℃。当然、焼け付いたアスファルトはほぼサウナストーンのような状態になっている。そこに雨である。わかりやすくいえば、サウナで、いきなり横のアホがバケツで水をぶちまいたようなものである。ロウリュとかよろこんでいる場合じゃない。馬鹿ロウリュだ。

 案の定、あっという間に窓ガラスは白く曇り、ためしにちょっと外に出てみたら猛烈な湿度で息もできないほどだった。たとえて言えば、取り組み直後の力士にハグされているかのような息苦しさだ。助けてくれ。

 とりあえず、気を取り直してヴィヒタの代わりに手でぴちゃぴちゃ腕やら頰やらをはたいておいたのだが、心なしかお肌がツルツルしてきたような気がするよね。周囲からアホに見られない程度にやってみることをおすすめする。

 

◎04.08.2018

 自由・平等・博愛のなかで、もっとも尊いのは「博愛」である。あくまでも個人的な意見だけれど。

 たしかに「自由」や「平等」はすばらしい。でも、それらは基本的に外から与えられるものである。たとえどんなにそれを欲しても、じぶんの力ではどうにもできないことがある。けっこう、ある。それに対して、「博愛」は内から与えるものである。

 大辞林によれば、「博愛」とは「すべての人を等しく愛すること」とある。「博愛」とは、ひとりひとりの心の持ちよう、つまりその精神のうちにあるということだ。だが、「自由」や「平等」とちがい、ただ口をあけて待っているだけでは「博愛」は手に入らない。ひとりひとりが、そのような心をもったときそれははじめて成就するのだ。だからこそ「尊い」。

 いまから20年くらい前、ぼくがぼんやりカフェをつくりたいなどと考えていたころ、巷では「カフェ・ブーム」などといわれ、おしゃれな街におしゃれなカフェができはじめていた。当時、いまよりも多少はマメだったこともありそういったお店にもたびたび足を運んだが、おなじライフスタイルやおなじセンスの人たちのたまり場のような空気に、正直あまり居心地のよさは感じられなかった。そんななか、ぼくにとっての「お手本」はたとえば京都の喫茶店に、またヘルシンキのカフェにあった。

 それは、こう言ってよければ、「博愛的」な空間だ。そこでは、一人ひとりのお客さんすべてにそれぞれの「居場所」があたえられていて、それぞれが思い思い勝手な時間の過ごし方をしているにもかかわらず、ゆるやかなひとつの気流が店全体を包み込みほのぼのとした空気を醸し出しているのだった。

 さて、開店から丸16年が過ぎ、「博愛的な場所をつくりたい」というぼくの当初の目標はおおむね達せられたような気がしている。ここ何日間かのことを思い出してみても、はじめてのひともいれば常連さんもいて、また以前はたらいていたスタッフもいる。夏休みの女子高生がいるかと思えば、会社帰りのOLにおばあちゃん、家族連れ、カップル、もちろん男性のひとり客もいるといった具合だ。お客さんの数は少ないというのに、これだけのバリエーションはなかなかよいのではないか。干渉しあわない風通しのよさがある一方で、無言の、ゆるやかな連帯もある。それぞれが、それぞれのやり方でそれぞれの「時間」を過ごし、またひとつの空間の中にあってたがいに認め合っている証拠だ。いま、moiというお店の空気をつくっているのは、ほかならぬこのひとりひとりの「博愛的な」お客さんたちであると思う。あとは、そうした居心地のよさを「発見」し、足を運んでくれるひとがもっともっと増えてくれるとよいのだけれど。

 それにしても、ここ数年の日本全体を覆っている空気はどうも苦手だ。個を、ひとつの全体に無理やり押し込めようとしているような印象を抱く。それぞれのちがいを認め合い、等しく愛するという「博愛」の精神はすっかり後ろに追いやられたかっこうである。だからこそ、よりいっそう「すべての人を等しく愛すること」の尊さを噛みしめて日々を過ごさなきゃ、ともかんがえる。

 フィロソフィーのダンスという風変わりな名前の4人組アイドルグループがある。ここ1年半ほど、ぼくが熱心に追いかけているグループである。最初こそ、アイドルが、哲学的な歌詞をひどくマニアックなファンクやR&Bにのせて歌うというそのコンセプトの新奇さにつられて聴いていたのだが、繰り返し音源を聴いたり、ライブに足を運んでみたりするうちに、ぼくがこの4人組に惹かれる理由はもっとちがったところにあるということがわかってきた。要は、このフィロソフィーのダンスもまた「博愛」の精神にあふれているのである。

 ひとつのグループであるにもかかわらず、フィロソフィーのダンスのメンバー4人はそのキャラクターも声質もまるでバラバラである。しかも、そのバラバラさ加減ときたら、縮まるどころか時間とともにむしろ拡がってゆくいっぽうなのだ。ところが、ここが不思議なところなのだけれど、それぞれがめいめいの個性を磨き、極めれば極めるほど、どういうわけかグループとしての「強さ」はより増して、魅力的になってゆく。

 つまり、メンバー4人がそれぞれ「フィロソフィーのダンス」という「枠」にみずからを合わせるのではなく、4つの個性がありのままにふるまうそのありようこそが「フィロソフィーのダンス」なのだ。仮に、フィロソフィーのダンスとメンバーのところをそれぞれ会社とその社員、国家とその国民に置き換えてみれば、このグループの風通しのよさが理解できるのではないか。当然、彼女たちのライブ・パフォーマンスからはありえないほどの楽しさがこぼれ落ちる。生きづらさから、ちょっとだけ解放された気分になる。

 つい最近MVが公開された「ライブ・ライフ」は、今月末にリリースされる両A面シングルからの楽曲なのだけれど、メンバー4人がときに悩んだり迷ったりしながらも自身の個性を磨き、またそれぞれの個性を認め合うことで懸命に走ってきたこの3年間の集大成といった趣の作品になっている。

 「博愛」とは「すべての人を等しく愛すること」である。と同時に、さまざまな違いを認め、障壁を乗り越えてすべての人を等しく愛そうと努めることは、巡り巡ってじぶん自身をまた強くたくましくもしてくれる。このMVに映る彼女たちの姿から、ふとそんなことをかんがえた。


フィロソフィーのダンス/ライブ・ライフ

01.08.2018-02.08.2018

◎01.08.2018

    暑い、暑い、暑い、と気がつけば歩きながらずっと念仏のように唱えている自分に気づき、いったん意識を「暑さ」から引き離さなければならないとかんがえたのだった。それには、なにか目にとまったものを一生懸命観察してみるのがよさそうだ。

 最初に視界に飛び込んできたのは、リュックサックを背負った男性の姿であった。男性は、リュックを背負うのでなく片方の肩にかけて歩いていた。肩にリュックをかけた男性の前方には、文字どおりリュックを背負った女性が歩いている。なるほど、おなじリュックの持ち方にしてもいろいろあるものだ。自宅からバス停にむかう15分ほどの炎天下を、そんなことをかんがえながら歩く。

 ビジネスにリュックはNGなのかと思いきや、こうやって見るとビジネスマンもずいぶん使っている。ちいさな発見。けっきょく、男女合わせて50人ほどのリュック愛用者たちを見かけたが、そのうちふつうに背負っているひとが9割弱くらい、残りは肩かけ1、手提げ1、そしてどういうわけか前にだっこして歩いているひとと3人(すべて男性)遭遇した。エッ? 前?

 その後、前にリュックを持つことがあるというひとの声を総合したところ、

・背中が熱く汗をかくから

・大事なものが入っているから

といった理由のほかに、もっとも多かったのは次のような意見だった。

・電車内で邪魔にならないよう抱えていたが背負い直すのが面倒くさいから

・立ち止まって背負い直すのが面倒くさいから

・わざわざ背負い直すほどの移動距離でもなく面倒くさいから

・なんかもう、とにかく面倒くさいから

 こうなると、巷で目にするナゾな行動のほとんどは「面倒くさい」で説明できるような気がしてきた。

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◎02.08.2018

    梅雨が明けてからというもの、それまで毎週のように通っていた図書館に一度も行っていない。図書館までの15分強の道のりを思うと、つい腰が引けてしまうのだ。そんなわけだから、こんな暑い日に汗をかきかき来てくださるお客様の顔だけは絶対に忘れない! それくらいの意気込みで、この夏は営業している。あとは、意気込みが記憶力の衰えに負けないことを祈るのみ。

    それはそうと、ここ数日ずいぶんと差し入れをいただいた。

    まず、振休で平日休みをゲットした元スタッフが、目黒区美術館で「フィンランド陶芸展」を観た帰りプリンを持って立ち寄ってくれた。濃厚な抹茶とほうじ茶のババロアの底にあの「こしあん」が入っている山田屋まんじゅうのプリン。早速おやつタイムに。よい子なので、一応おやつタイムは日に4回までと決めている。来年は5回をめざしたい。増えるのかよ。

    ひとひねりした、ちょっと楽しい差し入れをいつも持ってきてくださる常連のお客様。暑中見舞いにと持ってきてくださったのは、フィンランドのリンゴ酒とハパンレイパという「ちょい呑みセット」!?  薄く伸ばしたハーブ風味のライ麦パンをパリッパリに焼いた「ハパンレイパ」は、レイパ(=パン)というよりもむしろ日本人の味覚にはお煎餅のようなスナック感覚。やめられないとまらない。紀伊国屋のベーカリーが作っているので、見かけたらぜひ買ってみて。

    そしてさらに、べつの常連のお客様からいただいたのは朝摘みのブルーベリー。お菓子づくりのために摘んできたものをおすそ分けいただいた。ふっくら大粒で、しかも水分たっぷりでとても甘い。この猛暑のおかげだという。この夏を耐え忍べば、おれもこんなジューシーなおじさんになれるのだろうか、などと思う。そして、瑞々しいブルーベリーを夢中で口に運んでいると、頭の中、ぼんやりエルサ・ベスコフの絵本の世界が思い浮かぶのだ。

フィロソフィーのダンス「ライブ・ライフ」

本日公開されたフィロソフィーのダンス「ライブ・ライフ」MVの最後に映し出されるマルティン・ハイデッガー存在と時間』からの引用の邦訳です。ご参考まで。

 

「生命は一つの固有な存在様式であるのだが、本質上現存在においてのみ近づきうるのである。生命の存在論は欠性的な学的解釈という方途をたどって遂行されるのであって、この生命の存在論は、たんなる生命活動といったようなことがありうるのは、いかなることでなければならないのかを、規定する。生命は純然たる事物的存在でもなければ、それだからとて現存在でもない。現存在は、これはこれで、ひとが現存在を生命としてーー(存在論的に規定せずに)、しかも、そのうえなお何か別のものとして発端に置くというふうには、けっして存在論的に規定されえないのである」

マルティン・ハイデッガー存在と時間』第10節より(『世界の名著74 ハイデガー』原佑・渡邊二郎訳)

 

live life 愛を歌わせて 生きる、ってそのことだ


フィロソフィーのダンス/ライブ・ライフ

 

30.07.2018-31.07.2018

30.07.2018

 月曜日ってふしぎで、まあまあ忙しいかものすごく暇かのどちらかにはっきり分かれる。きょうは後者。ときどき、店にいるのか自分の家の居間にいるのかわからなくなるくらい。居間の気分でくつろいでいるところに、突然知らないひとが入ってくるものだから驚いたよ、まったく。

 そしてこういう日は、やたら人恋しい気分になっているものだから、知った顔をみつけるとついつい話し込んでしまい後から申し訳なかったと反省する。ここのところひさしぶりに、2、3年ぶりくらいに来てくださるお客様が何人か。けっこう驚かれるけれど、すこしムダ話の相手になっていただいたひとのことはたいがい憶えているものだ。しばらく間が開くと「きっと忘れられてるよなあ」とか思うかもしれないが、じつはけっこう憶えている。

 夕方も、Aさんに散々話し相手になってもらったうえにお茶代までいただいてしまいホントすみません。

 

31.07.2018

 定休日。7月の休日はほとんど自分の時間がなかったので、すこし涼しくなった頃合いをみはからってどこかに行く気になっていたのだが、結果から先に言えば無理だった。今年はあまりに暑すぎるし、夏休みもないのでなんとかペースダウンして乗り切るつもりが、なぜか「夏時間」とか始めてしまっていつもより営業時間が伸びているし……。とにかく、きょうは気力も体力もほぼゼロで寝たり起きたりしているうちに休日が終わっていた。

 それはそうと、たぶんみんながまだ観ていなくて、しかもぜひ観てもらいたい、個人的に超おすすめの北欧映像をひとつ思いついてしまった。みんなで観て、感想とか訊いてみたいなあ。もし、今週の日曜日とか8人くらい集まれそうだったら第2弾ということでイベントにしてしまうのだけど。参加したいという方がいらっしゃったら、メールでも、SNS経由でも、直接でもかまわないのでお声かけくださいませ。

28.07.2018-29.07.2018

28.07.2018

 土曜日。東から西へ進む「変な」台風12号が到来。予想よりも進路が西にずれたおかげでそこまでの影響はなかったものの、夕方前から周期的に滝のような雨に見舞われる。さすがに人通りもなくなってきたので、閉店時間を繰り上げて17時30分で閉めさせていただく。帰り道、平日よりもはるかに人影のまばらな吉祥寺の街が新鮮。

 そんななか、荻窪時代によく来てくださっていたお客様が激しい雨のなかひょっこり現れたのでびっくりした。どうしても買いたい生地があって来たという。いまや3児の母として多忙な日々を送っている彼女だが、そういえば結婚される前はよくパーツ屋さんで仕入れた材料を器用に使いすてきなアクセサリーを自作していたっけ。

 なんか気がついたら誰もいなくなってた! とケラケラ笑う彼女に、わざわざこんな嵐の日に来なくてもと思ったが、そうか、きょうのこの時間は、家事や子育てに追われる彼女にとってはきっと貴重なみじかい「自由時間」だったのだろう。そりゃ、大雨くらいじゃあきらめられないよね。それにしたって、よりによってそんなタイミングを狙ってやってくるとはなんて間の悪い台風か。「台風のアホ! すこしは空気読めや!」かわりに、黒々とした雲に悪態をついておいた。

 ところで、今回の台風についてテレビやラジオの天気予報ではさかんに「これまでの経験が通用しない」という言い方をしていたのだが、一生懸命なわりにいまひとつ伝わらない表現だなあと思いつつ聞いていた。

 というのも、たしかに猛烈な高気圧にブロックされてふつうとは逆に進路をとる台風というのは異常だし、それによってふだんとはちがう風の吹き方など「これまで経験したことのない」現象が起こりうるというのもよくわかるのだが、それはあくまでも「いつもの」台風についてデータを蓄え、分析している専門家の目線での話ではないか。一般人にとって台風といえば、強い風と強い雨、それによって引き起こされる水害や土砂災害であり、右から来ようが左から来ようが正直あまり関係ない。まあ、もしも雨のかわりにスープカレーが降ってくるとか、あるいは台風が下からやって来るとかすればさすがにみんな「ワォ!初体験!」となるかもしれないが。

 

29.07.2018

 日曜日。数日前はしのぎやすかったのに、台風がものすごい湿気を運んできたせいで東京全体が「シャワーを浴びた直後の換気の悪い浴室」みたいな状態になっている。勘違いして、おもむろに服を脱ぎだすヤツが発生しないとよいが。

 かねてよりお願いしてあったグスタフ・ラムステッドの日本滞在記をみほこさんからお借りする。ラムステッドは、初代の駐日公使として大正9年から昭和4年まで日本に暮らしたフィンランド人。戦前の浅草にいたフィンランド人の踊り子姉妹のことをなんとなく調べているのだが、彼女らが日本でラムステッドと面会したという典拠のわからない話があり、そのウラを取るため読みたかったのである。みほこさんからは、くわえてラクリッツ(=リコリス)も大量にいただいたのだが、うっかり夜のイベントで出し忘れてしまった。これを消費するためだけのために、なにかあたらしいイベントを企画しないと!?

 パンイチ! に出店していた「ふたつの木」の愛さんからクリームパンの差し入れをいただく。それが、なんとハリネズミのかたちをしているのだ。ハリネズミ型のチョコレートは見たことあるがパンは初めて、かな。かわいい。ぼくはお尻から、スタッフは頭から食べた。どちらがどうとはあえて言わないが。それにしても、愛さんがつくるお料理やお菓子はいつもながらやさしい味をしている。しみじみ美味しい。

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 17時30分で店を閉め、夜はイベント。先日の猛暑つづきのときになかばやけっぱちで企画した納涼イベントだが、とくにこれといった趣向があるわけでもないのに予想以上のお客様の参加をえてうれしいかぎり。趣味をおなじくする人たちと好きなものを共有するとき、みな気づけば笑顔になっている。「個人店」というのもまさにそれで、万人向けよりはおなじ趣味を有する人たちが集まることでつくられるスペシャルな空間であり、その意味で毎日がイベントみたいなものなんだよなと思う。というわけで、毎回記載するたびに微妙に変化するこの日のイベントのタイトルは、最終的に以下のとおり確定したいと思う。「この夏北欧に行けない人たちが、お茶を飲んだり北欧の映像を観たりしてダラダラ過ごし、最後笑顔になって帰る会」。また、参加したいという声もいくつかいただいているので、8月のうちにあと一度くらい開催したい。

 イベント終了後、片付けをしてなにげなく時計を見たらちょうどフジロックの中継でダーティー・プロジェクターズのライブがはじまるところだった。これがもうカッコよくて、彼らのアルバム全体に通底する美意識はそのままに、ライブならではのややラフな感じが加わってまるで生きもののように動き回る躍動感がある。

 この感動を共有したいと思ってむかし彼らのアルバムを聴かせてくれたスタッフにメールをしたところ、「外出していて観ていない」との返信があり、テンションが熱帯低気圧なみに急降下する。


Dirty Projectors - Break-Thru (Official Video)