moiのブログ 日々のカフェ season3

東京・吉祥寺の北欧カフェ「moi」の店主によるブログです。基本情報は【about】をご覧ください。

A・C・ジョビンの秘密の<中庭>へ

f:id:moicafe:20170601225723j:plain

 伊藤ゴローさんの新譜『アーキテクト・ジョビン』を来月5日の発売に先がけて聴かせてもらいました。

 

 「バラに降る雨」「ルイーザ」「インセンサテス」といったおなじみの曲をふくむ全編インストゥルメンタルによるアントニオ・カルロス・ジョビンのソングブックなのですが、いままでのジョビン集と明らかにちがうのはドビュッシーショパンなどクラシック音楽を偏愛し影響を受けた彼の横顔に光をあてていることにあります。ギターの村治佳織やチェロの遠藤真理といったクラシックの演奏家たちをフィーチャーした特別編成のアンサンブルによる演奏は、聴きなれたジョビンの曲の中にまだこんな<響き>が隠されていたのか! という新鮮な驚きと喜び、発見をもたらしてくれます。

 と、同時にその作業を通して<作曲家・伊藤ゴロー>の顔が見られるのもファンとしてはうれしいところ。作曲家としてのゴローさんには、アマゾンのそれとはちがうしっとりとした<湿り気>を感じます。思うにそれは、ゴローさんが生まれ育った<雪国>のそれなのではないかな。ブラジルの巨匠の作品を取り上げながらも、ゴローさんの手にかかると雪に閉ざされた無音の世界や雪解け水をあつめた春の渓流、むらさき色に霞んだ山々や色やかたちを刻々と変えてゆく夏の雲といった日本の景色が目に浮かんでくるのがなんとも不思議です。

 

 アントニオ・カルロス・ブラジレイロ・ヂ・アウメイダ・ジョビン。敬意と親しみを込めてトン・ジョビン。彼を一軒の<屋敷>にたとえるなら、そこには外からは見ることのできない実は秘密の<中庭>があって、その<中庭>にはジョビンが偏愛し大事に育ててきた可憐な花々が咲き乱れているのです。このアルバムを聴くとき、だからぼくらはゴローさんの手引きでそんな<中庭>に案内されているような気分になります。

 

いい眺めでした……

 

 思わずそんな感想をつぶやきたくなるこの『アーキテクト・ジョビン』。ボサノヴァ好きだけでなく、クラシック好き、いや五線紙の野に咲く花々を愛するすべての人たちにぜひ耳傾けてもらいたい作品です。

前途有望

f:id:moicafe:20170530194130j:image

週末、運動会の学校が多かったようで、月曜日は代休を使って吉祥寺まで遊びにきた小中学生の姿をたくさん見かけた。

お母さんと一緒に来店した小学生の女の子はいま<北欧ブーム>のまっただなかとのことで、終始ニコニコとランチタイムを過ごしてくれていた様子。小学生にしてすでに北欧好きとはなかなかの前途有望。

 

空からお届け

f:id:moicafe:20170528223930j:plain

昭和5(1930)年8月、世界一周中のドイツの巨大飛行船「ツェッペリン伯号」が日本に飛来した。

高島屋の宣伝部長、後に総支配人として辣腕をふるった川勝堅一は、大阪高島屋の屋上にこの「ツッペリン伯号」を繋留した合成写真をつくり、親交の深かった与謝野晶子のもとを訪ねる。「デパートも、地上でお買物を配達するばかりでなく、今に、空から運ぶ時代も来ると考えますから、この写真に、何かお歌を一つお願いします」。

すると晶子は、「それは面白い思いつきでしたね」と次のような歌をすぐに詠んでみせたという。

 

屋の上に 飛行船寄り 羽ごろもも 星もたやすく 運びこんとぞ

 

いまドローンを利用した配送の実験が行われている最中だが、80年以上前のデパートマンはすでにそんな未来の到来を予測していたわけである。

 

ーー川勝堅一『日本橋の奇蹟』(実業之日本社)より 画像は、棟方志功の木版に晶子の歌を添えたもの。

正夢

f:id:moicafe:20170528075108j:plain

明け方、「ひげを剃る夢」を見たのだけど。

これはでも、「正夢」とは呼ばないのだろうな。夢に見た非現実的なできごとが現実に起こったとき、それを「正夢」と呼ぶのだろうか?

窓の外でオナガの群れがけたたましく啼いている。オナガって、愛くるしい見た目のわりに声は二日酔いの朝のオッサンみたいなのだよね。

では、みなさまどうぞよい日曜日を。よろしければ吉祥寺にもぜひ!ぜひ!

ルーにまみれたい

f:id:moicafe:20170523224622j:image

表参道の「ハブモアカレー」さんに行ってきました。デフォルトでチキンカレーとダルカレー、それに好みの惣菜をふたつ選べます。選んだのは、ひよこ豆のドライカレーとにんじんのポタージュ、それにパール柑のチャツネも追加しました。どれも野菜の旨味を味わえる上品なカレーでしみじみ美味しかったです。ホント、美味しいカレーを食べると「ルーにまみれたい!!」って気分になりますよね(スミマセン言い過ぎました)。

 

「楽曲派」といわれるフィロソフィーのダンスだけど、じつは最大の武器は4人の「声」にこそあるんじゃない?と思った話

 ここのところ毎日2回ずつくらい、最近知った《フィロソフィーのダンス》というアイドルグループの『Funky but Chic』というアルバムを聴いている。

f:id:moicafe:20170522214604j:plain

 収録された全10曲、さすが<楽曲派>と呼ばれているだけにマニアックかつ完成度の高い楽曲が並び、しかも変化に富んでいるのでまったく飽きさせない。

 曲は、たとえばパワー・ステーションの「Some Like It Hot」を彷彿とさせるファンク「アイドル・フィロソフィー」、「オール・ウィ・ニード・イズ・ラブストーリー」では70年代のソウルテイスト、ハイテンションなディスコチューンの「好感度あげたい!」やカーティス・メイフィールド「Move On Up」っぽいアレンジに思わずニヤリとさせられる「コモンセンスバスターズ」、さらには山下達郎の「スパークル」を思い出させる軽快なギターのカッティングのイントロが印象的な「すききらいアンチノミー」といったぐあいに、70年代半ばから80年代後半くらいまでの洋楽、あるいはそういった音楽から多分に影響を受けた日本のシティポップへのオマージュになっている。最近はCDや配信に併行してアナログレコードを出したりするのが流行っているけれど、ぼくだったらフィロソフィーのダンスは<カセットテープ>で聴いてみたい。FMでエアチェックしたり、友だちから借りたレコードをせっせとダビングしてウォークマンに入れて聴いていた、そんな時代の音楽との<距離感>がこの『Funky but Chic』というアルバムには感じられるからだ。

 

 とはいえ、サウンド的に好みだからこんなに繰り返しこのアルバムを聴いてしまうのかというと、それはどうも違う気がする。ぼくの場合、とにかくまあジャンルはどうでもいいから、いままで聴いたことのないような、どんな音楽とも似ていないおもしろい音楽と出会いたいという欲求がいつもあるのだけれど、このフィロソフィーのダンスのアルバムにはそういう欲求をみたしてくれるオンリーワンな楽しさがあるのだ。そしてそのカギは、なによりメンバー4人の<声>にあるのではないだろうか。彼女たちの<声>だからこそ、ただ<アイドルがこだわりの楽曲を歌っている>というのとは明らかにちがうフィロソフィーのダンスならではの世界が生まれている。そう思って、彼女たちひとりひとりの<声>に耳を傾けて『Funky but Chic』を聴いてみた。

 

 奥津マリリさん(青)は、羽毛のような軽さと微かな震えが特徴的な美声の持ち主。「アイムアフタータイム」の歌声にはいつもゾクゾクさせられる。何度聴いてもやっぱりゾクゾクする。と同時に、表現力という点でもマリリさんは群を抜いている。彼女のパレットにはたくさんの種類の「色」があって、曲によって、またときにはひとつの曲の中でもその「色」を使い分ける。こうした使い分けについては天性の感覚による部分もあるだろうけれど、やはり熱心な研究の賜物なのではないかという気がする。マリリさんの<声>には、その意味でどこか<理知的>なイメージがある。

 

 それに対して、本能的というか野性的な<声>で対称的な世界をつくりだしているのが日向ハルさん(赤)だ。その小柄な身体とは裏腹に、パワフルでエネルギッシュなストロングスタイルの彼女の歌声はは聴くものを等しく圧倒する。どこかのインタビューで彼女を「日本のエタ・ジェームス」と紹介しているのを見たけれど、いまだかつて「エタ・ジェームス」を引き合いに出して紹介されたアイドルがいたであろうか(いやあるまい。反語調。)。けれど、たとえば「VIVA運命」の、音が歪んでビリつくほどの圧倒的な歌唱力を耳にするとき、そんな大仰な例えにも思わず頷いてしまう。実際ハルさんは、もしいまが2000年前後であったなら〝ディーヴァ系〟という括りでMISIAやbirdのような売り出し方をされていたかもしれない。そんな彼女が、「アイドル」という肩書きで活躍しているところに2017年の痛快さがある。先日、ハルさんのツイッターにクリトリック・リスのライブにゲスト出演(!)したときの写真が公開されていた。こ、これは一体…… いろんな意味で〝規格外〟なアイドルである。

f:id:moicafe:20170522223556j:plain

 ところで、『Funky but Chic』に収録されている「アイムアフタータイム」はこのハルさんとマリリさん、ふたりのボーカルをフィチャーしたスティーリー・ダン風のシティポップなのだが、音だけ聴いてこれをアイドルの曲と思うひとはまずいないのではないか。ぼくだったら、この曲がラジオや店で流れていたら「これ誰?」とあわてて調べると思う。


フィロソフィーのダンス「アイム・アフター・タイム」

 その一方で、楽曲のもつ世界とふたりの<声>とがあまりに合致しすぎていて「優等生」的というか、なにかちょっと食い足りない、そんな感想もまた個人的には抱いてしまう。俳句の世界に、「五七五」という定型のリズムを作為的に壊す「字余り」や「字足らず」といった技法がある。<破調>という。<破調>は、ことばの世界に新しい<リズム>、新しい<色彩>、そして新しい<ゆらぎ>をもたらす。フィロソフィーのダンスをつむぐ4つの<声>のなかで、この<破調>にあたるのが十束おとはさん(黄)のアニメ声(ご本人は「電波声」という表現が気に入っている様子なので以後「電波声」と表記)だ。

 アルバムのオープニングナンバーである「アイドル・フィロソフィー」は、硬派でファンキーなイントロに続いていきなりおとはさんがその<電波声>で歌い出すという意表をつく展開。これがもしマリリさんやハルさんの<声>で始まっていたら、この曲の印象はまた違ったものになったろう。おとはさんの<声>ともはやほとんど<咆哮>とすらいえるハルさんの歌うサビ、そのあいだの落差はものすごく大きい。そのため歌い出しからサビまで時間的にはわずかにもかかわらず、一気にとんでもない時空を移動したかのような〝めまい〟に近い感覚をおぼえる。かならずしもフィロソフィーのダンスの音楽性とは合っていないように思われるおとはさんの<電波声>だが、じつはその<声>こそが、あやうく「楽曲派」という優等生的で閉じた世界に引きこもってしまいそうなところをぐいっとつかまえ、扉をこじあけて解放するというだいじな役割を担っている。そういえば、おとはさんは自身のブログで〝中のひと〟の視点からアルバムの全曲レビューをされていて、それがとてもおもしろい。「アイムアフタータイム」の印象を「例えるなら、もずく。」とか(笑)。

 

 最後になったけれど、じつはフィロソフィーのダンスに絶対欠かすことのできない<声>、それは佐藤まりあさん(ピンク)の<声>だと思う。どちらかといえば、マリリさん、ハルさん、おとはさんの3人とくらべるとき、まりあさんの<声>は印象に残りにくい。けれども、フィロソフィーのダンスという世界の中で個性的な3人の<声>がバラバラに空中分解せずにいられるのはまりあさんの<声>があってこそである。

 色にたとえるなら、まりあさんの<声>は「白色」だ。「白」はどの色にも混ぜて使うことができるけれど、他の色を混ぜ合わせても「白色」をつくることはできない。そしてまた、白い絵の具がなければ絵は描けない。たとえ描けたとしても、どきつい原色ばかりの絵になってしまうだろう。まりあさんの<声>は、仮にまりあさんが歌っていないときも、そんなふうにしてオブラートのようにいつもフィロソフィーのダンス全体を包み込んでいる。みんながてんでバラバラな方角に飛んでいったとしても、まりあさんの<声>が真ん中にあるかぎりちゃんと同じひとつの世界に戻ってこれるのである。

 

 最初は、それこそ楽曲を聴いて「お!」と反応したぼくではあるけれど、聴き込むほどに4人の<声>がそれぞれに押したり引いたりしながら絶妙なバランスで《フィロソフィーのダンス》という唯一無二の世界を存在させていると感じるようになった。大人がよろこびそうなマニアックな楽曲をかわいい女の子たちに歌わせただけのニッチな企画モノでしょ? などと舐めてかかると手酷い目にあう。楽しくておもしろくてカッコイイ、そんな音楽に興味のあるひとならスルーするのはもったいないと思うぞ。聴こう。

フィロのス フィロソフィーのダンスとは