moiのブログ 日々のカフェ season3

東京・吉祥寺の北欧カフェ「moi」の店主によるブログです。基本情報は【about】をご覧ください。

今週(2/1〜2/6)の営業について

今週もいろいろ変更があり申し訳ありません。

 

★まず、2月2日(木)は都合によりお休みを頂戴いたします。したがって、2月2日分のフィンランドシナモンロールのテイクアウトも併せてお休みとなります。

 

★また、提供メニューにも若干の変更がございます。

2月3日(金)4日(土)のフードメニューは、

サーモンの北欧風タルタルサンド

スカンジナヴィアンホットドッグ

チーズスコーン

以上3種類となり、「フィンランドごはん」はお休みいたします。したがって、今週の「フィンランドごはん」の提供は5日(日)、6日(月)の2日のみとなりますのでご注意下さい。

 

なお、営業時間等は下記のカレンダーにてご確認下さい。

『マリメッコ展』感想

 Bunkamuraザ・ミュージアムで『マリメッコ展 デザイン、ファブリック、ライフスタイル』をみる。

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 時代の変遷とともに、マリメッコはどう変わり、また変わらなかったのか。そんなところを気に留めながら会場をみてゆく。

 

 創業者であるアルミ・ラティア、そして初期のマリメッコを支えたヴオッコ・ヌルメスニエミは、たとえばワンピースのデザインひとつとっても直線的で素っ気なく、だが、そこがまた革新的に映る。それはどこか、男性/女性の区別がないフィンランド語の3人称を思い起こさせたりもする。

 60年代から70年代になっても、アルミ=ヴオッコの路線は忠実に踏襲される。ワンピースのデザインは相変わらず直線的で素っ気ない。けれども、ヴィヴィッドな色彩やカラフルな図案を大胆に導入することでよりポップに、たっぷりと時代の気風を孕んだものになっているところがおもしろい。マリメッコで仕事する人たちは、そういう変えていい部分とけっして変えてはいけない部分とを十分に理解した上で、日々試行錯誤しているのではないか。

 

 これは、去年マリメッコを特集した雑誌『MOE』のインタビューでお話ししたことでもあるのだが、マリメッコのデザインは一貫して〝大きい〟。ここで〝大きい〟というのはなにも図柄がデカいということではなく、おおらかで、自由で、のびのびとした拡がりをもっているという意味である。

 たとえば、マリメッコと聞いてまず思い出されるであろうマイヤ・イソラの代表作「ウニッコ」。咲き乱れるポピーの花々は、布の上にあふれ、風に揺れ、ついには布をはみ出してどこまでも続いてゆくようにさえ見える。「ウニッコ」が、巷にあふれる凡庸な花柄とあきらかに異なる点はそこに、まさにその〝大きさ〟にある。繊細さや緻密さ、ツンと取り澄ましたような洗練よりも、重視されるべくは動感であり、ときにちょっと乱暴なくらいのエネルギーのほとばしりなのである。会場に並んだ図案の数々をみれば、なにもそれはマイヤ・イソラにかぎった特徴などではなく、現代にまで脈々と受け継がれてきたマリメッコのいわば〝伝統〟なのだということに気づくはずだ。マリメッコで仕事をしたデザイナーはたくさんいるが、デザイナーは違えども並んだ作品のすべてから共通して〝マリメッコっぽい〟としか言いようのないある種の〝匂い〟が感じられるのは、つまりそういうことなのだろう。

 後半では、マリメッコで活躍したふたりの日本人、脇阪克二と石本藤雄が紹介されるが、マリメッコの〝伝統〟の上に日本人ならではの〝几帳面さ〟〝細やかさ〟を加味した彼らの図案のユニークさは、やはりマリメッコという磁場からしか生まれ得なかったいちがいない。

 

 マリメッコというブランド名が、〝マリーのための服〟という意味をもっていることはよく知られている。では、「マリー」とは一体だれなのか? それはおそらく、社会で活躍するすべての女性の総称なのではないだろうか?(★)。それを身につけることで、自由に生き生きと活動的になれる洋服をマリメッコは一貫してつくり続けてきた。今回の展示をみて、1951年の創業以来、こうした〝社是〟に一点のブレもないことにあらためて感嘆するとともに、なるほどフィンランドの街路ですれ違うマリメッコの衣服を身につけた女性たちがみな一様に堂々としている理由がわかった気がした。

 

(★)マリメッコのMariについては、公式サイトによると創業者アルミ(Armi)のアナグラムとのことです。フィンランドのえつろさん、情報ありがとうございます。。

待機と飛翔

あけましておめでとうございます。酉年にちなんで、先日美術館で出会った一枚の「鳥」の絵を。

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畑中優「意志*」(2011 板・油彩 15.7×22.6cm)。

これは、仏文学者で音楽や美術にかんする著作も多い粟津則雄がかつて収集し、その後練馬区立美術館に寄贈した約100点の美術作品のうちのひとつで、いま開催中の『粟津則雄コレクション展〝思考する眼〟の向こうに』と題された企画展示のなかでもとりわけ目を引いた一枚である。粟津則雄は、こうした絵画を書斎の壁に飾り思索や執筆のあいまあいまに楽しんでいたという。「〝思考する眼〟の向こうに」というサブタイトルはそこからきているのだろう。

身を低くしてじっとたたずむ鴉のすがた。動きを止めたその身体は完全に背景に溶け込み、もはや区別もつかないほどだ。だが、その眼はというと、時がくるのをじっと待ちかまえる眼、待機する眼である。身じろぎひとつしないその身体を描きながら、同時に、画家の眼は、やがて時が満ち力強く飛翔する彼のすがたをたしかにとらえている。

* 画題は公式サイト上では「意思」となっているが、出品リストに準じ「意志」と表記した。

moi納め・moi始めのご案内

今年も残すところあとわずか、恒例の「moi納め」「moi始め」のご案内です。年内は大晦日まで営業! 年始は5日より通常営業いたします。ひさしぶりに行ってみようか、いつも行ってるけど景気付けに行ってやるかという皆様、お待ちしております。もちろんこの機会に初めて……という方も大歓迎です。なお、営業時間、メニュー等に変更がありますのでご来店の際には前もってのご確認お願いいたします。店主

ランミンヨウル、ひるねこブックス、下町風俗資料館とルナパークの幻影をめぐって

昼過ぎ、谷中のギャラリーTENに到着。毎年、オープン以来お世話になっているフィンランド好きのお客様方が、ここで『Lämmin Joulu〜あたたかいクリスマス』というグループ展を開催されている。

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フィンランドをモチーフとしたハンドメイドのバッグやアクセサリー類が所狭しと並ぶなか、ちょうど伺ったときにはストローをつないで作るヒンメリ(=麦わらで作るクリスマス用のオーナメント)のワークショップも開催中。素朴な麦わら細工に対し、モダンな雰囲気のストローのヒンメリは一年を通してモビールとしても楽しめそう。会場ではお茶とピパルカック(ジンジャークッキー)も振る舞われ、文字通り〝あたたかい〟クリスマス気分を堪能。

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 会場で手に入れたフィンランド家庭料理研究家・西尾ひろ子さんが焼いたフィンランドの菓子パン「Voisilmä Pulla」。直訳すると「バター目玉パン」。

 

ギャラリーTENを後にし、先日本郷中央教会で開催された柳下美恵さんのイベントでご一緒した「ひるねこBOOKS」さんを訪ねる。ギャラリーTENとは目と鼻の先と聞いてはいたが、じっさいには「目と鼻」どころか「目と眉」の先ほどの近さ。びっくり。

絵本を中心にセレクトされたこだわりの古本、それに新刊本が並ぶ書棚から、絵本でも北欧でもなく、野田宇太郎『東京文学散歩 下町(上)』(雪華社)、窪島誠一郎『漂泊 日系画家野田英夫の生涯』(新潮社)の2冊を抜いてレジへ。つい先だって散歩したばかりの日本橋、築地、銀座界隈をとりあげた野田宇太郎の随筆に、松本竣介と池袋モンパルナス界隈への関心につながる野田英夫の評伝…… しかし気づけば2冊ともなんと「野田」がらみではないか! 「野田」マニアか!

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さらに谷中からトコトコと動物園の脇を通って不忍池に出たのは、下町風俗資料館でいま開催中の特別展『娯楽の殿堂 浅草〜華やかなる130年〜』を観るため。

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 浅草寺門前町として栄えた浅草は、江戸時代、歌舞伎役者が暮らし芝居小屋が建ち並ぶ芝居の街であった。それが、上野、飛鳥山、芝などとともに「公園」として制定された明治以降、いわゆる「六区」界隈を中心に遊園地、オペラ、レビュー、映画といった最新のエンタテインメントが隆盛を極めるまさに〝娯楽の聖地〟となる。関東大震災東京大空襲と相次ぐ災厄に見舞われながらもそのつど逞しくも復興してきたこの庶民の街の歴史を、当時の写真やパンフレット、ポスターなどを通して辿ってみようというのがこの企画。スペースの制約もあってか内容は広く浅くといった印象ではあったけれど、浅草がつねに最新のエンタテインメントを庶民に提供する場であり続けたという点についてはよく伝わった。

ただ、個人的に残念だったのは、「ルナパーク」にかんする資料が見当たらなかったことだ。

「ルナパーク」とは、明治の終わりから大正初めのごく短い期間に浅草に存在した遊園地の名称である。記録によれば、浅草公園の六区(現在の東京都台東区浅草1丁目43番というから、いま浅草演芸ホールなどのある一角)に「ルナパーク」が開業したのが明治43(1910)年9月10日のこと。しかしそれからわずか8ヶ月、明治44(1911)年4月29日、「ルナパーク」は火災により焼失してしまう。その後は「東京ルナパーク」と改称、はっきりとしたことは不明ながら大正3年ごろまで細々と存続したといわれている。

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在りし日をしのばせる「ルナパーク」 をとらえた貴重な絵葉書 画像参照元:ルナパーク (浅草) - Wikipedia

わずか8ヶ月とはいえ、いかに「ルナパーク」が当時の人びとを魅了する存在であったかは、文人たちがこぞってそこを訪れ、自身の作品のなかに登場させていることからもわかる。

たとえば、北原白秋は「ふうらりふらりと出て来るはルナアパークの道化もの」(「道化もの」明治44年3月)と詩によみ、また萩原朔太郎は「遊園地(るなぱあく)にて」(『氷島』所収)という作品を残した。

 

「遊園地(るなぱあく)の午後なりき 楽隊は空に轟き 回転木馬の目まぐるしく 艶めく紅のごむ風船 群衆の上を飛び行けり」…… 

 

昼下がりの遊園地の喧騒と物哀しさとが、一枚のカラー写真を見るよりもずっと鮮明に浮かび上がる。また、夏目漱石を「ルナパーク」に誘ったときの思い出を愉快そうに語っているのは寺田寅彦である。「いつかおおぜいで先生を引っぱって浅草へ行ってルナパークのメリーゴーラウンドに乗せたこともあったが、いかにも迷惑そうであったが若い者の言うなりになって木馬にのっかってぐるぐる回っていた」(「夏目漱石先生の追憶」)。木馬にまたがった漱石が不機嫌そうにぐるぐる回っている…… 資料こそ少ないが、文人たちの書き残したルナパークの情景は実際どんな記録写真よりも雄弁と言っていい。

ところで、どうもぼくらは「遊園地」というと子どもの遊び場というイメージを抱きがちだが、上にあるように「ルナパーク」はむしろ物珍しさにつられた大人たちが大挙して押し寄せ、ひととき童心に帰る、そんな場所として活況を呈したようである。

じっさい、伊藤俊治によれば、南極旅行館、天文館、海底旅行館、自動機械館、木馬館、電気発音館、天女館、植物温室、相撲活動館といったたくさんのアトラクションのなかでもとりわけ高い人気を誇ったのが「汽車活動館」だったという。それは「汽車の座席に座って前方のスクリーンに映される2本のレールを見るという単純な仕掛けだったが、そこに座るだけで離郷者が遠い故郷の母のもとへ帰ってゆくことができるイメージ装置として人気を集めた」。そして、「休日になると『ちょいとだけ泣いてくる』とやってきた地方出身の青年たちで、一杯になり、他の館の喚声とは裏腹にここだけは涙とため息に包まれていた」のだそうだ。

ちなみに、「ルナパーク」のアトラクションに映像をつかったものが多いわけは、「ルナパーク」の母体である吉澤商店が、浮世絵などの輸出のかたわら幻燈、後に活動写真を輸入する貿易商であったことが大きい。火災に見舞われて早々に復興を諦めてしまったのも、あるいは遊園地よりもキネマに未来が感じられたからかもしれない。事実、大正元(1912)年になると吉澤商店は他の映画会社と合併、「日本活動写真株式会社」(=「日活』の前身)を立ち上げている。まさに「遊園地という立体空間が映画という平面世界にぬりこめられていったのである」。

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ルナパークの〝ランドマーク〟高さ15メートルの築山と滝 画像引用元:浅草六区再生プロジェクト

そろそろ雨も落ちてきそうだったので、上野駅で「ペリカン」の食パンだけ買って早々に家路に着いた。 

 

参考/伊藤俊治「廃墟のルナパーク」(「LOO」1984年12月号)